「火花」又吉直樹

 「漫才師とはこうあるべきやと語る者は永遠に漫才師にはなられへん。
 長い時間をかけて漫才師に近づいて行く作業をしているだけであって、本物の漫才師にはなられへん。
 憧れてるだけやな。本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」


 ご存知、第153回(平成27年度上半期)芥川賞受賞作です。
 中身が漫才の話とは知っていましたが、まったく想像とは違ったものでした。
 ハッキリ言って、面白くない。
 でもここでの「面白くない」は褒め言葉。
 文学性が非常に高いのです。作家の大先生が書いたような感じの文学作品、いや、並みの作家ではこれは書けないか。
 又吉さんでなければ。
 芸人として、書いたものが面白くないと言われるのはどうなんだろうとは思いますが、つまり、これは芸人の又吉が書いたのではなくて、作家の又吉が書いたものなのですね。
 エンタメ性が低い。漫才の掛け合いそのものの会話などに吹き出す場面があるにはあるのですが、急にガクンと文学的深みにハマるので、そのまま面白がっていられません。
 これで芥川賞ならば文句はないなあ。
 話題性で選ばれたわけではありませんねえ、どうも。
 他の候補作品を読んだわけではありませんが、間違いなく賞に相応しいレベルの作品であると思います。

 内容は、小さな事務所に所属する漫才師の徳永という20歳の男。彼の一人称の物語です。
 舞台は東京ですが、徳永は大阪出身。
 サッカー大阪選抜の過去があるということは、これ、又吉自信がモデルですよねえ。
 ということは、神谷のモデルもいるのかな?
 徳永は熱海の花火大会の前座で漫才をしたとき、大阪からきていた漫才師の神谷に出会います。
 神谷才蔵。徳永の4歳上。コンビ名「あほんだら」。大阪の大手事務所所属。
 そのまま飲みに誘われた徳永は、神谷という孤高の漫才師に強く惹かれていくことになるのです。
 徳永はもっぱら地方営業や小屋でのライブ中心で、ろくに稼げずに深夜バイトで食いつないでいましたが、神谷だって、けっして売れている漫才師ではありません。
 しかし、神谷には客に媚びず、自分のスタイルをまっとうする強い意志がありました。
 彼は、46時中、息をしている間ずっと漫才師でした。
 売れている、売れていない、客が笑う、笑わない、そんなこと関係ない。神谷の求める漫才には。
 徳永には、神谷の考えそうなことはわかっても、考えていることはわかりません。
 自分の才能を超えるものは、そう簡単に想像できるものではないのです。
 「漫才」に悩んでいた徳永は神谷に憧れ、彼の教えを守り、行動を共にし、己の漫才のスタイルを追求していくのです。

 うん、改めて思ったけど、神谷のモデルはいますね、きっと。
 いそうだもん。借金したあげく巨乳のオッサンになったかどうか知りませんが。
 それにしても、この作品は面白くないけど、いや、面白くないというのが、この場合は褒め言葉なんですけども、又吉の作家としての才能は大したものだと思いました。
 すごいね。
 芸人というのは、小説家の素養があって当たり前だと思います。台本ですから。
 漫才師が面白い小説を書いてもまったく不思議だとは思いません。
 でも本作は、そういう領域を超えていると思います。
 強豪の北陽高校サッカー部で大阪選抜にも入ったことだけでも、普通ではありません。
 又吉直樹という男の豊かな才能から生まれたものなのでしょう。
 
 あえてオチをつけるならば、神谷の存在そのものが、本来の漫才というものへの求道であったということなんでしょう。
 だから、なり切れなかった。徳永は。
 それが才能であるのかどうなのかを、考えさせられるという作品ではなかったかと思います。
 才能はときには無である、と。
 おそらく、ずっと作者自身が問い続けてきたことなのでしょうね。


 
 
 
 
 
 
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「異類婚姻譚」本谷有希子

 第154回(平成27年下半期)芥川賞受賞作です。
 受賞作の「異類婚姻譚」を含む、全4篇。
 作者の本谷有希子さんは、劇団の主宰者であり、劇作家兼女優。
 顔の感じがちょっと小林聡美に似ています。
 この方、なんと野間文芸新人賞と三島由紀夫賞も受賞しており、文学新人賞三冠王なのですね。
 只者ではありません。
 書かれた物も、只者ではありませんでした。
 平易な文章ながら、内容は極めて幻惑的で難解です。

「異類婚姻譚」
 結婚して4年目、専業主婦のサンちゃんは、ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気づく。
 同じマンションの顔見知りであるキタエさんに相談すると、キタエさんの知り合いの夫婦にも似たようなことがあったという。
 似たもの夫婦とはいうが、限度を超え、ますます旦那はサンちゃんに、サンちゃんは夫になっていく。
 まるで、二匹の蛇が互いに尻尾から食い合っているように・・・
 やがて、旦那の顔が、旦那をついに忘れてはじめた。そしてサンちゃんの顔も元の顔を忘れてしまう。
 さらっと読み終えるも、頭のなかは「???」だらけ。
 これはいったい、なんだったのか?
 ヒントはカップリングされている他の作品にあると思いました。
 つまりこれも、表面的に、不思議系として読めという暗示ですね。
 旦那はいったい何者だったのか、サンショはどうなったのか、解釈は適当でいいです。
 ですが、あえて意味を付けるならば、婚姻という極めて普通の社会現象ながら、本来異類である他人同士が人生を共にしていくことの不可思議さを問うたものだと思いますね。
 気楽だから、楽だからという理由で、一緒にいるふたりは、いつしか独自性を無くしていってしまう。
 対照的に描かれているのが、サンちゃんの弟カップルで、こちらは自分を見失っていません。
 もう一組描かれているキタエさん夫妻は、同化する前に間に何かを挟んだという例。しかしサンショは、生き物であるために不本意に日本に帰国することになった夫妻の“アク”に汚染されてしまったのか、部屋中に粗相をするようになって山に捨てられてしまいます。一瞬、読みながらサンちゃんの旦那がサンショに乗り移ったのではないかと思いましたが、これは違うようです。
 夫婦の顔が変化するというメタファーは、同棲によって人間個々の独自性をなくすという見解が無難かなあ。
 「自分だけ食べさせていると思ってた?」という旦那の一言が不気味で印象に残っています。
 サンちゃんも俺を食ってたじゃないかということですね。自分から同化していたじゃないかという批判です。
 着想がすごい小説だったと思いました。


「〈犬たち〉」
 人気切り絵作家の作品を複製するために、人里離れた静かな山小屋を友人から借りることになった“私”。
 住んでみると、そこにはたくさんの真っ白な犬たちが暮らしていた。
 買い出しのために街に下りた私は、自警団の男から「行方不明者が相次いでいる。犬に注意せよ」と警告を受ける。
 すごく良く出来たホラー。いい作品です。出色といっていい。
 この小説を読んだので、「異類婚姻譚」も似たような方向で解釈していいのかと思ったんですね。


「トモ子のバウムクーヘン」
 ふたりの子供と猫に囲まれて幸せな午後を過ごしていたトモ子の日常が、急に暗転する。
 それは、ふいに、なぜか、なんとなく、トモ子の心の潜在意識からにじみ出てきた形のない恐怖だった。
 この世界が途中で消されてしまうクイズ番組である、という比喩がまったくわかりません。
 このへんのセンスというか頭のなかですね、珍しく、影さえ踏めないほどついていけない小説家であると思う。


「藁の夫」
 仲良く公園のランニングコースをジョギングするトモ子と夫。
 しかし、夫のレギンスとスニーカーの隙間からは、おがくずのようなゴミがたまに落ちている。
 トモ子の夫は藁(わら)で出来ているのだ。半年前に結婚したときは、「どうして藁と結婚するのか」とずいぶん反対された。しかし、トモ子は優しげな藁に惹かれたのだった。
 ところが、ジョギングを終え、帰宅しようとしたとき、トモ子は夫の車に傷をつけてしまう。
 夫はいつまでたっても、わざとらしく藁の隙間からため息をついては、聞えよがしにトモ子をなじった。
 トモ子は思わず、藁に火を付ければどうなるのか、炎に包まれる藁の塊を想像してしまう。
 藁の夫。面白い発想。
 擬人化の反対です。擬物化(笑)
 作者は結婚しているようですが、何かしら夫に対して腹を立てたときにこの小説のプロットが浮かんだのではないでしょうか。車に傷で逆ギレはありがちですね。夫が藁ならば、燃やしたらすっとするでしょうね。



 
 
 
 
 
 

 

「死んでいない者」滝口悠生

 第153回(平成27年下半期)芥川賞受賞作です。
 作者は、滝口悠生(たきぐちゆうしょう)さん。
 まあ、大衆小説ではない文芸作品を扱う芥川賞だから、そんな面白い読み物ではないわな。
 ただどことなく私には映像観が強く伴う作品で、いい意味でクセのある作品ではないかと思いました。
 こんな素人っぽい映画あるよね。
 まったく客観的にお通夜の瞬間瞬間を切り貼りしてみました、みたいな。

 で、本筋。
 といっても、あらすじは書きようばありません。ストーリーがないんですから。
 と書いて気付きました、なんで映画みたいな感覚だったのか理由がわかりました。
 そうかそうか、ストーリーがなかったんだ。
 なるほどね。
 おそらくこれも、死と生の境界を曖昧にさせる作者の意図的なものなのでしょう。
 本作は他にも、時間的なものだったり人間関係だったり、ラストでは空間まで使って、連続的事象における「生と死」の有り様を浮き彫りにしています。
 死と生、死んでいる者と生きている者の違いは何でしょうか。
 ただひとつ確実であるのは、死という概念は、それは生きている者が感じるものなのです。
 死者は生も死も感じられません。
 ということは、生きている者にとっては、誰かが死ぬことによって周辺や自分の状態が変化するということですよね。
 それは大切な人をなくした心の痛みであろうし、物理的な人数の減少でもあろうし、様々な社会的手続きの煩雑さであろうし、滅多に会うことのない親戚同士が会合する機会であったりするわけです。
 本作の舞台は、だから、お通夜。
 登場人物は、埼玉の片田舎に集まった、故人の子どもや孫、ひ孫たちです。
 85歳で亡くなった故人は、名前さえ出てきません。
 このお話において、故人はほとんど放ったらかしです。
 しかし、集会所で行われたお通夜に集まった30人ばかりの人間は、すべて亡くなった故人に関係している人間ばかりです。
 血縁関係もあれば義理の家族もあるし、ゲートボール仲間や幼なじみもいます。
 すべて、死んでしまった故人を中心として、生きている人間が一堂に会した舞台なのですね、お葬式は。
 死んでいて、なおかつ小説では名前さえないのに、故人はこの舞台の主人公になっている。
 そこに意義があるのです。
 もちろん、すべての親族が集まれるわけではありません。
 中には仕事で来られない者ばかりか、数年前から行方不明なんて奴もいます。
 しかし来られない者もまた、このときばかりは集まった人間たちの脳裏に浮かび上がってくるのです。「あの人はどうしているんだろう」みたいな感じで。その逆もまたある。廊下ですれ違って自分の名前を親しげに読んでくれたおばさんの名前と自分との関係がまったくわからないとかね。
 田舎の葬式なんてもう大変ですよ、もう誰が誰だかわからないんですから。
 あんなことに意味があるのかと思いますけどね。通夜振る舞いを泥棒に来ても、わかりませんよね。
 そういえば昔、ラジオドラマでしみじみ怖いのがありました。
 いつも葬式のたびに来ているおばさんが、誰に聞いても誰だかわからないという。
 
 自分まで続く家系の中で、どこかひとつが欠けていても自分はこの世にいません。
 しかし考えようによっては、自分がここにいいるからこそ連綿と家系が続いてきたともいえるわけです。
 同じ血を分けた親族は、確かに大切な存在です。
 しかし、血を分けていながらも、どこにいるのか誰であるのかわからない人のほうが多いんですね。
 むしろ気さえ合えば、義理の関係のほうがうまくいくかもわかりません。血縁と義理の違い。
 そこらへんもこの小説には交えられているんでしょうけど、そこまではなかなか私では読み解けませんね。


 
 
 
 
 

「スクラップ・アンド・ビルド」羽田圭介

 第153回(2015年度下半期)芥川賞受賞作品です。
 又吉の「火花」と同時受賞でしたので、さぞかし影が薄いかと思いきや、作者の羽田圭介さんは、なぜかよくテレビで見かけます。露天風呂入ってたりとか。何者?

 簡単にあらすじ。
 主人公の田中健斗は28歳。
 新卒で入ったカーディーラーで5年間務めた後退職し、現在無職。
 多摩ニュータウンの団地で、母と母方の祖父と一緒に暮らしている。
 祖父は87歳。長崎で農業をしていたが自活できなくなり、、5人の子供の家をたらい回し的に厄介になって、3年前に姉が嫁いだのと入れ替わるように、健斗の家にやって来た。
 母は長女だ。ちなみに健斗の父は彼が小学校2年生のとき亡くなった。
 祖父は、居候という身分を意識してハリボテのような奥ゆかしさでもってひっそりと暮らしている。
 家の中を、杖の音が響かないように、息を潜めて歩いている。
 祖父の口癖は、「じいちゃんなんか、早う死んだらよか」である。
 長い冬と夏にはさまれた4月と5月の一瞬だけが祖父にとって比較的快適な気候で、365日のうち330日は死にたいと呟いている。「もう、毎日身体中が痛くて痛くて・・・どうもようならんし、悪くなるばぁっか。よかことなんかひとつもなか」
 「早う迎えにきてほしか」
 実際、祖父はこの家に来てから睡眠薬で服毒自殺を謀ったことがあったが、病院で検査をしても診断はいたって健康体であり、加齢による循環器系の薬を飲みさえすれば健康でいられると言われている。
 しかし、健斗は祖父本人にしかわからない主観的な苦痛や不快感があるのだと思っている。
 そして、毎日のように祖父の「死にたか」を聞いているうちに、この老人が望んでいる通り、苦痛や恐怖心さえない穏やかな死、尊厳死を与えてやれないかと本気で思うようになる。
 一方、そんな祖父を見ていると反面教師のように、退職してから一年近く経って多少自堕落な生活を送っていた健斗は、なまっていた体を鍛え、再就職のために努力を惜しまないようになった。
 筋肉が超回復するように。再構築のための破壊である。
 そしてある日、健斗が祖父の入浴を介助していたときに、祖父は胸元までしか水の入っていないバスタブの中で溺れそうになるのだが・・・

 結果は、「ああ、死ぬとこだった」ということで(笑)
 これはまあ、私もわかるような気がするなあ。
 亡くなった祖父が、「もういつ死んでもええねん」と言いながら健康のためにクロレラ飲んでましたから。
 誰にでも起こりうる矛盾というか、いや矛盾ではなくて、健康なまま死にたいということなんでしょう。
 まあでも、こうやって「死にたい」という老人は、程度はともかく甘えているのに間違いありませんけどね。
 「死にたい」という吐露を聞かせる人間がいるからこそ、こういう甘えを吐くのであって、ひとりで暮らしていれば「死にたい」という余裕すらないでしょうから。
 それでも、結局は「死にたい」と甘えながらも、健康でいるようでも、老い先は短いんですけどね。
 この小説のいいところは、健斗が祖父を反面教師にして、自分の一度傾きかけた人生を立て直すところところです。
 これつまり、「死にたい」というしか能がなかった87歳の祖父が、立派に社会に役立ったということです。
 非常に飛躍した読み方をすれば、台所を走った黒い影といい、祖父がなかば演技で健斗を立ち直らせるために、弱りきった姿をわざと見せていたという見解もありでしょう。
 この世に無駄な命などありません。
 生きているだけで、素晴らしいのです。ならば、中途半端に燃えカスにならずに完全に魂を燃焼させるような生き方をするべきでしょう。途中で放り出すなんてもったいない。
 健全な魂は、健全な体に宿ります。
 スクラップ・アンド・ビルド。さあ、挑戦しましょう。


 
 

 

「春の庭」柴崎友香

 第151回(2014年度上半期)芥川賞受賞作です。
 柴崎友香(しばさきともか)さん。
 小学校の先生みたいな柔らかい雰囲気の方ですね。
 先日、思いがけないところと言ってもテレビなんですが、見かけました。
 BSプレミアムで、ハゲのおっさんが「とうちゃこ!」と叫びながら自転車で日本全国を走り回る番組があるんですが、それの総集編というか前夜祭に、出てらっしゃいました。火野正平というか番組のファンみたいですね。
 この物語も季節の花々がたくさん登場しますが、火野正平も見かけによらず草花に精通しています。
 白木蓮とか海棠(かいどう)とか、わかるんですよ、あのハゲのオッサン。
 さすが作家、けっこう面白い着眼点からのお話だったように思いましたよ。
 ぜひ、これをネタにまた新しい小説を書いてもらいたいですね。

 さて、肝心の本編。
 最近の芥川賞受賞作の本にしては珍しく、カップリングはありません。1本の作品のみです。
 つまり、ふつうの受賞作より長い(中編)ということだと思うんですが、長さをまったく感じさせない仕上がりです。
 全体的に淡白というか、あっさりしています。内容も、極々軽いので非常に読みやすいです。
 引っかかるところがありません。
 最後、一瞬だけドキッとさせられる作者のイタズラみたいな場面がありますが、押しなべて平坦です。
 ある意味、非常に安心して読める作品だと思います。
 でもまあ、それなりに作者の工夫というか、読み手によって捉え方が異なるかもしれませんが、テーマがあります。
 ネコアシ、トックリバチの徳利、父の散骨、不発弾、やって来ては去っていく人々・・・
 これらは何を意味しているのでしょうか、おそらく、「形は常に変わる」「世の中は常に動いている」「残されたものには何かが抜けている」「動と静は対比ではなく3次元+時間でリンクしている」的なことなんでしょうね。181ページで突然語り手が変わったのも、「変わらないものはない」というテーマの一環でしょうね。小説の視点でさえ永久不変のものではない。ま、これが世の習いということです。当たり前のことです。だからこんなに読んでいて心地が良かったのかもしれません。
 他にも、西がアパートを引っ越して出て行ったとき、そこはかとない淋しさといいますか、喪失感を覚えました。
 あれは作者の腕なのか偶然なのか、“祭りのあと”のような寂寥感を小説のなかで感じることができる、これは素晴らしい作品であることの証左なのではないでしょうか。
 ちなみに私の頭のなかは、なぜか西がイメージ的に津村記久子になっていました。どうしてでしょうか。

 では、少しあらすじ。
 世田谷区にある築31年の木造アパート「ビューパレス サエキⅢ」は、2階建て8部屋。
 ある日、1階の端の部屋に住んでいる太郎がふと空を見上げて見つけたもの、それは2階の対角線上の部屋のベランダから身を乗り出して、アパートの向こうにある水色の邸宅を熱心に見ているオンナの姿だった。
 黒縁眼鏡のオカッパ頭でお洒落っ気はなく、おそらく30歳過ぎで太郎の少し上くらい。
 オンナは、やおらスケッチブックを取り出して何やら描き始めたが、太郎がこちらを見ていることに気づいて、スッと見えなくなった。彼女は2月に引っ越してきたことは知っているが、話をしたことはなかった。
 物語はここからはじまる。
 ベランダから水色の家を覗いてスケッチしていた2階の部屋の女性は、西という。
 西がどうして水色の家にこだわっているかというと、彼女が大事に持っている「春の庭」という写真集は、水色の家で撮られたものだからだ。「春の庭」は20年前のもので、水色の家に住んでいた夫婦の日常生活やこの家の庭に咲く花々が撮影されたものだった。当時、夫は35歳のCMディレクター、妻は27歳で小劇団の女優だった。
 もちろん、撮影当時の夫婦は、もうこの家にいない。
 それどころか、離婚したという話もある。
 西は、イラストや漫画を描いて仕事にしていた。子供のときから大規模団地のような画一的な住居にばかり住んでいた彼女は、写真集に載っていた水色の家に憧れていたのだ。そして引っ越す時にネットで偶然その家の画像を見つけて、この家の近くのアパートを見つけて住み着いたのである。家ストーカーみたい?である。
 しかし、西がアパートに越してきたときには、空き家だった水色の家は、いつのまにか「森尾」という表札がかかっていた。人が住めば、家はガラッと変わる。森尾家は、4人家族で雰囲気のいい家庭のようである。
 家の中や庭が見たいがために、偶然を利用してするするっと森尾家の奥さんと仲良くなった西。しかし、風呂場だけは覗く理由がなかった。写真集では、壁も床も、黄緑から緑色のモザイクタイルがグラデーションになった風呂場はまるで森みたいで、西の一番気になる場所だった。
 西がなんとか風呂場を覗けるように、太郎は協力することになるのだが・・・


 
 
 
 
 
 
 
 
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