「月の満ち欠け」佐藤正午

 あたしは、月のように死んで、生まれ変わる
 月の満ち欠けのように、生と死を繰り返す


 第157回(平成29年度上半期)直木賞受賞作です。
 この手の話を直木賞で読んだのは初めてだし、この手の話は好きなので面白かったですね。
 ちょっと文体は重めで硬いけど、ファンタジック・ラブストーリーと云えますか。
 切なくはならないな。なんでだろう、そういう風に書いていないのかもしれないし、単に硬いからかもしれない。
 あるいは、瑠璃の気持ちが重すぎる、哲彦への思いが強すぎて理解しにくいということも考えられるでしょう。
 でも、謎が謎を呼ぶ展開にさくっと引き込まれました。純粋に楽しめる物語でした。
 読みながら、軽く日本酒を五合。日本盛の糖度ゼロのやつ。酒の肴としても最高の本だったということです。
 佐藤正午の小説は初めて読みましたが、ぜひ他のも読みたいと思いましたよ。
 直木賞の選評で北方謙三が「私と同じ年のデビューで・・・」と言っているのを目にしましたが、寡作なんですよね。
 そのぶん、ひとつひとつの作品が濃そうでいいじゃないですか。
 たぶん職業小説家ではないのでしょうね。

 あらすじそのものがネタバレなので、導入だけ。
 小山内堅・梢夫婦の一人娘である瑠璃が“変調”したのは、7歳のときだった。
 一週間続いた高熱のあと、急に平常に戻った瑠璃はお気に入りのクマのぬいぐるみに「アキラ」と名前を付けた。
 妻の梢がいくら本人に聞いても、「アキラ」の出処はわからない。
 やがて瑠璃は知っているはずのない古い歌謡曲を歌い、ノートには両親も知らない短歌を書き連ね、ひとりで高田馬場の廃ビルにいるところを補導された。何を探していたのだろう?
 娘は知るはずのない昔のことを知っており、それを隠そうとしている。
 しかし父親として堅ができたことは、瑠璃が補導されたときに、ひとりで遠くまでいくのは高校を卒業してからと約束することだけだった。しかし11年待って瑠璃は高校を卒業した後、妻の梢と共に交通事故に巻き込まれた。ふたりとも即死だった。
 それから15年後。堅は瑠璃の遺品の中に、一枚の油絵を見つけた。高校時代、彼女は美術部員だったのだ。
 包み紙をほどくと、そこに描かれていたのは、堅が知らない青年の顔だった。
 
 ちょっとややこしいのでね、整理すると、
 正木瑠璃(奈良岡瑠璃)がオリジナル、次に小山内瑠璃、小沼希美、今の緑坂るりの順番です。
 ちなみに三角哲彦の年齢をこれに当てはめると、それぞれに20、38,45,52になります。
 どうして幼いうちに亡くなりやすいのか、これは条理を壊して無理しているからでしょうね。
 まあ、条理も不条理もないわけだけど(笑)
 意外ですが巻末の参考文献にある通り「前世を記憶する子どもたち」という本は実在しますから、そこに何かヒントが書かれているかもしれませんね。あんまり読む気はしませんが。
 気になるところもありました。
 「生まれ変わりはあたしだけとはかぎらないよ」と緑坂るりが言ったとき、思わず背筋がぞっとしたのは、荒谷母娘のことではなく、正木竜之介のことが頭にあったからです。
 これはどうだろう。物語を覆すのに十分な伏線でしたが、作者はたぶんあえて放置したと思う。
 ラブストーリーがホラーに変わるほどの破壊力を正木竜之介というキャラクターは持っていたように思います。
 もっとも、もしもそうしていれば本作が直木賞を受賞するような本にはなっていなかったかな・・・
 正木が拘置所で残した短い遺言とは、「ちょっと死んでみる」に違いないと思うんですよ。
 5,6年前に死んだということなので、彼がまだ「生き返ってない」とは言えないでしょう? 
 緑坂ゆいが長電話していたマネージャーが「真崎」という名前だったことは偶然ではないと思います。
 緑坂るりちゃんは今後無事でしょうかね、心配だねえ。
 弟ができたなら、それはきっと「正木」ですよ。


 

 
 
 
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「海の見える理髪店」荻原浩

 第155回(2016年度上半期)直木賞受賞作です。
 とっても優しくて上品な短編の物語が、表題作ほか6篇。
 情感が深くてなおかつ映像が自然に浮かんでくる上質のヒューマンドラマですね。

 初めて読んだのですが、荻原浩ってオッサンだったんですね、「こう」と読ませて女の人かと思っていました。
 気づいたのは、読み終わって後付を見てから。
 文章がとても優しくて、とても男性とは思えませんでした。
 作品から受ける感じでは、オールドイングランドとかのストールをふわっと肩にかけていて、音を立てずに紅茶をすっと飲んでね、あれなんて言うのだったかな、イギリスにスカンクみたいな名前のお菓子があるでしょう、あれを忘れた頃にぼそっと口に入れてね、気品のある独身40歳代後半の女性、身長は165センチくらい、みたいな感じなんですよ。
 それがまあ、なんと画像を拝見いたしましたらね、焼酎かっ食らって腹出して寝そうなオッサンでしょ。驚きました。
 まあ、それは冗談としましても、ふつう、「あ、これは若作りして青春小説書いてるけど正体はオッサンだな」と読んでて臭ってくるものなんですよね、行間に加齢臭が。誰とは言いませんけど、白河三兎とか。
 それがまったく臭わない。これほどまでに男性が書いていることを感じさせない文章はないんじゃないかな。
 もはやプロという呼び方さえおこがましい、その存在自体が作家であると同時に作品と同化してしまっている気がしますね、溶けて。ほかの作品を必ず読んでみようと思いました。これもマンネリだけれども直木賞の効用であると思います。

「海の見える理髪店」
 ネットで少々評判になっているという海辺の小さな町にある理髪店に、グラフィックデザイナーをしている客が訪ねてくる。店主は白髪の目立つかなりの高齢だが背筋はしゃっきりとしている。客が理容椅子に座ると、前に大きな鏡があってそこに海がいっぱいに広がっている。店主は理髪しながら、客に自分のこれまでの人生を語りかける。
 本書に収められたすべての物語に云えることですが、ラストが秀逸。これ以上の終わり方はないという仕舞い方。
 短編になくてはならない切れ味のおかげで読後感がスッキリとしています。


「いつか来た道」
 16年ぶりに故郷の実家を訪れた杏子を待っていたのは、72歳になる母の「ああ、あなた。何しにきたの」という言葉だった。母は画家で、杏子も才能がないのに厳しすぎる英才教育を受けてきた。家を出たときには、二度とこの人には会わないと胸に誓っていたのであるが、しかし・・・
 私は猫が好きだからでしょうか、母親の描いていた絵の構図に、白い点でマユちゃんが出てきたときには、ちょっと泣きました。人の内見も外見もどちらも描写が素晴らしい。たとえば認知症の母親の挙動とその老いてしまった脳が一生懸命考えようとしている様子とか。

「遠くから来た手紙」
 残業続きの夫。頻繁に顔を出す義母。東京での結婚生活に嫌気が差して、幼い娘を連れて実家に帰ってきた祥子だが、梨農家をしている実家には、弟夫婦が同居しており、すでに祥子の居場所などない。祥子は6年前に亡くなった祖母の部屋に落ち着くが、そこで祖母が残した手紙を発見する。
 メールのやりとりで始まる冒頭が斬新。初めて読んだので、こういうファンタジックな展開は予想していませんでしたから、ちょっと驚きました。そうだよね、戦時中の引き離された夫婦の気持ちを思えば、生ぬるい夫婦喧嘩などしている場合ではないですね。残ってないかな? とこっそり机の中をあら探ししたくなる作品でした。

「空は今日もスカイ」
 両親が離婚し、叔父夫婦が跡を継いでいる田舎の母の実家にやってきた8歳の茜。最初は優しかった叔父夫婦だが、母の仕事が決まらずに居候生活が長くなると、とたんに愛想が悪くなった。英語を教えてくれていた従姉も、相手にしてくれなくなった。夏休み、茜は冒険という名のプチ家出を実行する。好きな海を見るために・・・
 ちょっと毛色の違う作品です。あくまでも子供視点というのが徹底されていて、ホームレスの男の描写など面白いですが、茜と森島陽太君の今後のことを思うと、この物語だけはハッピーエンドとはいえないね。中途半端だね。

「時のない時計」
 定年を3年後に控えながら、会社を退職してしまった主人公。失業中。2ヶ月前に亡くなった父親の形見分けで、壊れた古い時計をもらった。スイス製だ。修理してもらうために、商店街にある古い時計屋を訪れるのだが、年老いた職人肌の店主ひとりが切り盛りするその店内には、様々な時計がその“時”を止めていた。その理由とは・・・
 一番色々と考えられるのは、この作品でしょうか。店主の腹の中とか、なんで1万8千円もしたのか、とか。
 1万8千円は、修理代というより時計の値打ちそのものだったのではないですか。イコール見栄っ張りの父の真の姿。
 店主は時計に囲まれて暮らしながら、時そのものは止まっていた。しかし主人公は昔の父親の本当の姿を垣間見たことにより、先を進む、つまり時計の針を進めることができたということでしょう。


「成人式」
 15歳の一人娘が交通事故で亡くなったのは5年前。以来、49歳の父親と45歳の母親は、昔撮った娘のビデオを見返したり、娘が事故をした朝、どうして「学校に遅れるぞ、急げ」などと言ったのかと繰り返し後悔している毎日だ。心の痛みは時間が解決するというが、それは何年先のことだろう。永久に来ないかもしれない。ふたりは実年齢以上に老いてしまっていた。
 しかし、娘が死んだことなど知らぬ、名簿から自動的に送られる成人式用のレンタル衣装のカタログがポストに届いたことをきっかけに、ふたりは底なし沼からの起死回生の奇策を考えたのだった。
 この作品の情感は飛び抜けていると言っていいでしょう。娘を亡くした親の気持ちがここまで切実に語られている小説は読んだことがありません。涙なしでは読めないですね。笑いというのは、人生で一番必要かと思います。どうしようもない暗からの、ほんのちょっぴり光がさした瞬間を切り取った良作でしたね。

「何者」朝井リョウ

 想像力が足りない人ほど、他人に想像力を求める。
 他の人間とは違う自分を、誰かに想像してほしくてたまらないのだ。


 第148回直木賞(2012年下半期)受賞作です。
 5年も前ですか。
 深夜のラジオを聴いていて、「なんだ朝井リョウは変態だったか、キモ」と思って読む気が失せていました。
 もっともそれは本作が出てからずっと後のことで、朝井リョウの記念すべき直木賞受賞作を今まで読んでいなかったのは、本作が就活を題材にしたものだということを知っていたからです。
 私、学生時代に就活で一度、大恥をかいたことがありましてね。
 それが今もトラウマになっています。面接で大失敗をしたのです。
 おそらく、今も就活と聞けばあのとき同じグループで面接を受けていた連中は、私のことを思い出して失笑しているはずです。
 もっとも、その会社は盛大に倒産してしまいましたが・・・
 それに私の学生時分は超就職氷河期の時代でしたから、会社も強気でしてね、就活にいい印象の思い出はありません。ですから、本作が就活を題材にしていると知った時点で、嫌なことが甦り、すっかり及び腰になってしまっていたのです。

 いざ、読んでみると、想像していたのとは違いました。
 朝井リョウのことだから、青春小説の延長線上で爽やかな就活ドラマを描いているのではないかと思っていたのです。
 ところが、実際の就職活動の現場なんて少ししか書かれていませんでした。
 どちらかというと、就活に臨んでいる人間の背景や裏側にスポットを当てた硬派のヒューマンドラマでした。
 そして、ミステリー小説だったのかと思えるほど、ラスト辺には想像もつかない大きな驚きがありました。
 これはまったく予想もできなかったブラックな展開で、さすが朝井リョウやるじゃんと唸りましたわ。
 少し掘り下げに雑なところもありますが、読まず嫌いしていたことが悔やまれるくらいの、問題作でしたね。
 
 主な登場人物は、えーと、6人。同じ大学で、おそらくみんな齢は同じだと思います。
 バンドマンで金髪を真っ黒に染め直して就活に挑む、光太郎。
 光太郎とルームシェアをしており、演劇をしていた拓人。瑞月に片思い。
 アメリカ留学から帰国して就活に臨む、瑞月。光太郎の元恋人。
 瑞月の友達で、光太郎と拓人のアパートの上階に住む理香。
 理香の同棲している彼氏で、一見就活から距離を置いている隆良。
 そして大学を退学して好きな演劇の道に踏み込み、就活などまったく関係ないギンジ。
 就活を巡って、繰り広げられる彼らの人間ドラマ。
 想定外でしたが、かなりブラックな方向に進んでいきます。
 叙述トリックなので、作者の意図には気づきません。
 SNSの発信がキーポイントですね。6人ともやってるし。
 おそらくSNSの広がりが、作者がこの作品を創作するきっかけになったのではないですか。
 表面に現れるのは文字だけで、現実にそれを書いている人間は何者なのかという。
 ここで、この作品のテーマが実は就活だけではなく、SNSでもあったことに気付かされるのです。
 就職活動もある意味、自分をどんどん偽って、自分自身ではない何かが憑依するみたいなものですからね。
 SNSにしても、まあ、フェイスブックはリアルだけど、ツイッターやブログは覆面だからね。
 表面に出される情報だけを追っていくと、本当のことが埋もれていきますから。
 理香は「うざ、落ちろw」と思いながら読んでいましたが、まさか拓人がこんなだとは思いもよらなかったです。
 このふたりが、どうして内定を勝ち取ることができないのか。
 それはおそらく、不器用というよりバカだからじゃないでしょうか。
 私は現実にそうでしたが、友人がいいところに就職できれば、「いい金づるができた」と喜ぶべきです。
 人生に勝ち負けなどありません。


 
 

 

「蜜蜂と遠雷」恩田陸

 キタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。..。.:*・゜゚・* !!!!!
 ついに!! 恩田陸が直木賞を受賞しました。
 もう今更、要らなかったかもしれないけど、ノミネート6回目ですか。長かったねえ。
 学園ホラーの名作「六番目の小夜子」でデビューしてから、20数年。
 いまだに好きです、「六番目の小夜子」。
 以来、早熟でもなく晩成でもなく、変わらぬ活躍ぶりを続けてきました。稀勢の里みたいだなあ。
 もちろん、その間には地雷もあったし駄作もあります。私は3冊に1冊くらいは読んでると思う。
 正直、直木賞にはもう縁がないと思っていました。
 もう、通り過ぎただろうと。
 本作「蜜蜂と遠雷」が、最後の砦だったかもしれないね。
 しかし、この最後の砦は最強でしたね。
 他年度の受賞作も、本作と一緒にノミネートされれば、たいがい落選したと思う。
 まさに、文句なし。
 原稿用紙千数百枚、500ページ二段組の超大作ですが、のめり込んで読めました。
 国際ピアノコンクールを舞台にした、異色の音楽小説です。
 私、クラシックのことは正直、よくわかりません。でも、超面白かったです。

 あらすじと概要。
 物語の舞台は、芳ヶ江国際ピアノコンクール。
 作者インタビュー見ましたが、芳ヶ江のイメージは浜松だそう。そう、世界的音響メーカーの地元。
 今回で第6回目を迎える芳ヶ江国際ピアノコンクールは、過去の優勝者が世界的に著名なコンクールを制したこともあり、時代を担うスターの登竜門として、世界中から夢見る若手が集まります。
 90人のコンテスタントは、2週間のうち、まず一次予選(演奏時間20分)で24人に絞られ、二次予選(演奏時間40分)で12人になり、三次予選(演奏時間60分)でやっとオーケストラとコンチェルトを弾く本選に進む6人が決まるのです。
 物語の主要なキャラクターとなる、コンテスタントは4人。
 世界中から敬愛された伝説のピアニスト、ユウジ・フォン=ホフマンの秘蔵の弟子である、謎の少年・風間塵。
 13歳のときに一度はキャリアを断った、“ステージから消えた天才少女”・栄伝亜夜。
 優勝候補筆頭と目されるジュリアード音楽院の王子・マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
 参加最年長の28歳、会社勤めで家族持ち、生活音楽者の高島明石。
 彼らの演奏と闘い、そして音楽を通じた友情が本作のテーマ。
 視点は彼ら4人だけではなく、2週間のあいだ神経をすり減らす審査員や、舞台の袖からコンテスタントを送り出すステージマネージャー、会期のあいだ不眠が続く調律師、生徒の師匠、家族、ケアしてくれる友人、テレビカメラのクルーなど、コンクールを中心として多角的な視点から語られて物語が進みます。
 そして帰結は「音楽」。あくまでも、音楽が主役です。
 誰が優勝するのか? コンテスタントたちと同じように、あるときは緊張し、胸をドキドキさせながら先を進み、やがて圧倒的な演奏に飲み込まれることになります。

 ある意味、実験的な小説でしたね、価値ある実験。
 音楽が小説にどれだけ書けるのかという。
 足かけ6年にわたって連載された小説ですが、作者は相当苦しんだようです。
 音を文にしなければなりませんから。難しいよねえ。プロットどころじゃないですよ。
 本当によくここまで描けたな、と思います。
 直木賞の価値はありますよ。
 しかも、筋は面白いですし。
 音楽家の大変さもよくわかりました。食べていけるのはほんの一握り。
 幼少の頃からずっと音楽一筋に近い努力を重ねがら、お金も費やしながら、成功する人間は滅多にいません。
 それでも、観客と一体となる演奏中の高揚は、何物にも代えがたいものだとか。
 審査員も大変です。
 万が一、予選で落としたコンテスタントが後でスターになれば、末代までの恥になります。
 非常な責任感をもって臨まなければならない、過酷な務めです。
 そういうところですね、私はほとんど知りませんでしたから、なおさら面白く読めたと思います。
 音楽をやっている方が読めば、また感想は違うでしょうし、ひょっとしたら素人よりも楽しく読めるかもしれないですね。
 直木賞の名に恥じない、大作でした。


 
 
 

 
 

「つまをめとらば」青山文平

 第154回(平成27年度下半期)直木賞受賞作です。
 長編だと思って読んだので、こんな面白いのが最後まで続くのかたまらんと思ってたらプツンて終わってしまい、
 短編かよガ━━(゚Д゚;)━━━ン!!!!! となりましたが、読み終わってみると6篇の物語はそれぞれに味があって良かったと思う。
 江戸時代中後期を舞台にした時代人情小説集です。
 隠居した中年旗本のそこはかとない人生の裏側を描く表題作の「つまをめとらば」は特に深かったですね。
 いや、ドラマチックな江戸社会風刺である「逢対」や、たそがれ清兵衛なみの剣劇が活きる「ひと夏」もまた捨てがたい。
 振り返ると、その時は良作の期待にドキドキした冒頭の「ひともうらやむ」が一番つまらなかったかもしれません。
 まあ、おのがスタイルを確立した作家だわね。
 つい最近読んだ「白樫の樹の下で」では、いい意味での筆の若さを感じましたが、本作群には全く感じませんでした。
 男女間の機微や愛憎を絡めながら、対象の対比で浮かんだ一本の筋を通していく作風がウケる所以なのでしょう。
 たとえば美形の妻を娶ったのと美形とはいえない妻を娶った男の人生を比べて風景を描き、はたして男にとって女とはなんぞや、というふうな真相を浮かび上がらせていくのですね。
 どちらかというと対象作品よりも小説家としての事蹟が買われる直木賞受賞作としては、たいそう面白かったと思います。

「ひともうらやむ」
 美丈夫と美形の、ひともうらやむ組み合わせと思われた、長倉克巳と世津の縁組。
 克巳は藩門閥の家老職の世継ぎであり、見目も麗しく剣術もできる、ふたりとない美丈夫であった。
 世津は、藩が三顧の礼を尽くして迎えた西洋医学の世に名高い医師の娘で、ふたりとない美人であった。
 しかし、1年余りで彼らの婚姻は破綻してしまう。
 惚れたら負けよ(;一_一)

「つゆかせぎ」
 つゆかせぎとは、日銭稼ぎの作女などが雨で仕事ができないせいで、宿屋などで春をひさぐことです。
 主人公はしがない旗本の家侍。妻が病死し、死んでから彼女が筆名をもって戯作を書いて売りだしていたことを知ります。
 元はといえば、妻は市井の芝居茶屋の娘であり、俳諧を趣味としていた主人公と俳句の場で知り合ったのでした。
 彼女が絡めとった相手は、俳諧師の主人公であり、侍の主人公ではありませんでした。
 妻が死んでから、彼女と心のなかで対話していた主人公は、ようやく自分の活きる道を悟るのです。
 凶作がきっかけとはいえ、ラストで俳諧の道を選んだ主人公の選択にエールを送りたい。

「乳付」
 御家人と旗本。母からなまじの習い事では役に立たぬと漢詩を習わされた民恵は、漢詩の縁で、両番家筋四百石の旗本である神尾信明に嫁ぐことになりました。家格の違いから気が重かった縁組でしたが、信明は優しく、2年半あまりで男子を授かります。
 しかし、民恵は産褥で寝付き、初子の新次郎には遠縁の乳母が付くことになりました。
 なんとなく中年の女子であろうと想像していた民恵でしたが、いざ乳母に会ってびっくりします。
 民恵と同じくらいの齢の、たいそう美しい女性だったのです。
 信明までが瀬紀という彼女と親しく話しているのを見るにつけ、民恵は悋気(嫉妬)いたします。

「ひと夏」
 貧乏小藩の柳原藩で、当主である兄の部屋住みであった高林啓吾に、思わぬ出仕(召し出し)の書状がきた。
 いざ裃姿で登場してみると、百石大番組という沙汰は建前で、事実は領地を管理する地方御用だった。
 しかも、務めた誰もが2年は持たぬという、幕府御料地の真ん中にある飛び地の管理が任務であった。
 領地の百姓は、柳原藩などバカにして相手にしておらず、無理強いをすれば一揆勃発の恐れもあった。
 何もしないに限る、前任者からこの地での身の処し方を聞いていた啓吾は、慎重に任務を開始する。
 しかし、よりによって幕府領の侍が手代を手にかけて柳原藩の用事も司る庄屋の屋内の立てこもるという事件が発生した。
 立てこもっている侍は、いまをときめく直心影流の使い手だという。啓吾は田舎の道場の防御剣法の目録である。
 さて、どうなるのか・・・?
 剣戟が良かった。念流と直心影流の立会や如何に。作者には武道の素養を感じる。

「逢対」
 「逢対」とは、朝早く登城する前の権家、つまり権勢をもつ幕閣の屋敷に無役の者は出仕を求めて日参することを云います。
 本作の主人公である竹内泰郎は父子二代の無役の貧乏旗本ながら、独学とはいえ好きな算学塾でなんとか身を立てていました。彼には近所の煮売屋の女主人である里という深い関係になった女がいて、生まれつき身の軽い彼女は婚姻を望んでいませんが、泰郎にも考えるところがあり、近所の貧乏旗本の友人に頼んで、逢対に連れて行ってもらうのです。
 先は、今をときめく実力派の若年寄である長坂備後守。
 長蛇の列をかいくぐり、臨んだ初めての逢対でしたが、所と姓名を名乗るくらいしか出来ませんでした。
 ところが・・・
 数日後、長坂備後守の家の者が宅にやってきて、「主人が折り入って懇談の場を持ちたい」と申していることを伝えにきたのでした。はたして・・・

「つまをめとらば」
 深掘省吾は10年ぶりに幼なじみの山脇貞次郎に出会った。ふたりとも56歳で、隠居している旗本である。
 話の流れから、貞次郎は省吾の家作(離れ間みたいなもの)を借りたいと申し出、即受けることになった。
 広敷添番という大奥の用事を預かる職についていた貞次郎は女の正体を見て女を倦み、生涯独身であったのだが、この年になって世帯を持とうと思っているという。省吾の家作を、夫婦の新居にしようとしているのだった。
 めでたいと省吾は思った。しかし、貞次郎が越してきても待てど暮らせど相手はやってこない。
 なぜか?
 省吾は、己の三度の結婚の失敗の真相を、この古き友に心を開いて語りながら、ようやく貞次郎の胸の内を聞くことになるのだが・・・
 この話は読む人によって捉え方が違ってくるでしょう。
 枯れたと読むかもう一花と読むか。私は魚心あれば水心ありと読みました。



 
 
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