「生と死のミニャ・コンガ」阿部幹雄

 「なぜ、阿部さんだけが死ななかったのですか」
 ある遺族が質問した。
 質問をされるまで、「なぜ死ななかったのか」などと考えたこともなかったぼくは、質問に答えることができなかった。
 なぜ死ななかったのだろう。
 なぜ、ぼく一人生き残ったのだろう。
 それが、ぼくの運命というものなのか。答えを見いだすことができないぼくは、「運命だと思います」とだけ、答えるのが精一杯だった。


 8人が滑落死亡した北海道山岳連盟ミニャコンガ登山隊の生還者による衝撃の手記。
 ただただ、恐ろしかった。
 著者の目の前を、仲間がザイルで繋がれたまま2千数百メートルも落ちていったのです。
 恐怖に驚愕した彼らの顔、恐怖の目、見たことのない形相。しかも誰も声を上げないまま・・・
 
 ミニャコンガは中国四川省の成都から西へ約400キロ、チベット高原の東端に位置する大雪山脈の主峰。
 標高は7556メートルで、ヒマラヤのジャイアンツたちと比べると低いですが、魔の山として知られています。
 初登頂は1932年のアメリカ隊、第2登は1959年に中国隊(3名死亡)がいずれも北西稜から成功しています。
 しかしその後中国の政治情勢により閉ざされており、ようやく1980年代になって“開放”されました。
 そのタイミングで真っ先に手を上げたのが、日本の北海道山岳連盟の登山隊(23名)でした。
 日中友好のタイミングと政治力もあって、外国勢で初めて彼らに入域登山の許可が下りたのです。
 しかも、目指すのは未だ未踏の北東稜です。応募した隊員たちの胸は湧いたことでしょう。
 後にフォーカスの探検記で名を上げる著者ですが、このときは北海道大学を卒業したばかりで山岳写真家を目指す駆け出しの27歳の貧乏青年でした。著者は1981年の本隊の前に、1980年の偵察隊にも加わっています。
 日本登山史上最悪ともいえる滑落事故が起きたのは、1981年5月10日の頂上アタック当日でした。
 山頂を目指したのは第1次登頂隊の12名。出発時は快晴でしたが後に天気は急変。
 頂上までわずか100メートル少しというところで、先頭を行っていたひとりがいきなり滑落しました。
 山頂に迫っていたグループは登頂を諦め、滑落した隊員を捜索しますが見つかりません。
 仕方なく下山を開始しましたが、誰かが滑って落ちたのに巻き込まれて、ザイルで繋がっていた7人がもろとも滑落していきました。この事故は、体調が悪くて皆に遅れてようやく登っていた著者の目の前で起こりました。確保していた隊員は皆が落ちてザイルが伸び切ったときに吹っ飛んでいきました。その瞬間、彼と目が合ったそうです。
 助かったのは、幸か不幸か体調が悪くて遅れていた著者を含む3人と、それに付き添っていた副隊長の4人。
 しかし、天候が急変したのと積雪で帰りのルートを見失ったために、4人の下山もまさに危機一髪の決死行となり、実際に著者はクレパスに落ちて九分九厘死にかけています。
 ようやく第2次登頂隊のメンバーに救出されたときには、凍傷で足の指が真っ黒になっていたそうです。

 事故の原因はなんだったのか。
 事故報告書では、無理な全員登頂計画を立てた川越昭夫隊長の責任を厳しく問うていたそうですが・・・
 実質的な計画立案者だった氏家英紀副隊長が肺炎のために参加できなくなったときから、何かが芽生えていたのでしょう。
 隊員のなかでただひとり8千メートル級の登山経験者である森美枝子は第2次登頂隊でしたが、現地で登山を拒絶したそうです。第六感みたいなものでものすごい不安感を覚えたからだそうです。
 隊員たちの高所登山への知識不足、登山計画の緻密さの欠如。そして、何よりも失点だったのはミニャコンガを甘く見ていたことです。あの山なら全員でいける、やさしいとみんなが油断していました。だからバラバラに近い形で登り、ザイルの準備も1本しかありませんでした。ことごとく誤った判断を登山隊は下していました。その結果の事故なのです。
 ミニャコンガが魔の山と呼ばれる由縁です。やさしいと思わせておいて、最後の最後で牙をむくのです。
 なんせ、日本人だけで10名を超える方が亡くなっているのですからね・・・

 本書はこの後、著者の知人も亡くなった1994年の日本ヒマラヤ協会ミニャコンガ登山隊の不審な行動、そして彼らが発見した北海道山岳連盟の隊員の遺体の捜索の模様が語られています。
 遺体捜索隊は、著者も副隊長となって参加しました。1995年のことです。
 すでに家庭を持っていた著者にとって、ミニャコンガは地球上で一番行きたくない場所でした。
 ただひとり現場で生き残った自分が死んだ仲間に呼ばれるのではないかという不安があったそうです。
 うん、わかる。よく頑張って行ったと思いますよ。鎮魂ができたね。
 結局このとき遺体は見つかりませんでしたが、氷河で眠る息子たちへ故郷北海道の香りを届けたいと遺族がラベンダーのポプリを撒いたとの記述には、思わず涙が出て止まりませんでした。

 本書の著者である阿部幹雄さんが巻末のあとがきを書いておられたこともあって、私はこの本を「ミニヤコンカ奇跡の生還」で知ったのですが、というか、1981年の事故はそれを読むまで知らなかったのですが、改めて本書で事故の詳しいところを読んでみると感じが全然違いましたね。温度差というか。本読で阿部さんは川越隊長を手厳しく非難しており、生存した隊員や遺族と隊長の縁は事故以来切れているかのように書かれていますが、「ミニヤコンカ奇跡の生還」で著者の松田さんは登攀中に発見した北海道山岳連盟隊のピッケルを、登山の参考に話を聞きに行った川越隊長のお土産にしようと思ったと書いていました。なぜなんでしょうかね。この空気読めていない感はどこからきたのでしょうかね。
 ひょっとしたら松田さんらの挑戦は事故の翌年のことだったし、報告書とかがまだで、事故の本当のところの原因を松田さんは知らないまま、逆にもっとも責任があったと言われている川越隊長に話を聞いただけで行ったんじゃないですかね。
 隊長と他の隊員や遺族との関係が険悪になっていることを何も知らなかったんじゃないでしょうか。
 奈良副隊長か阿部さんに話を聞いていれば、違った結果があり得たかもしれないと思いました。





 
 
 
 
 
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「ミニヤコンカ奇跡の生還」松田宏也

 手袋を手から取ろうとしたとき、僕は、高圧線に手が触れたような衝撃を受けた。
 スポッ!・・・と、絹の手袋のまず左の小指から取りにかかったところ、手袋の小指に、もう一枚の本物の小指の皮膚が指サックみたいに脱げた。皮膚がスッポリ取れた左の小指は、真っ黒だった。
 左手の指、五本ともすべて真っ黒だった。そして右手の指も、十本の指全部が真っ黒だった。
 指の痛みはまったくない。無感覚なのだ。だが、曲がらない。どの関節も動かない。

 指が死んだ。僕の知らないうちに、指が死んだ。

 日本人だけで14名が遭難死亡している魔の山ミニヤコンカからの壮絶な生還体験記。
 山菜採りにきた少数民族に奇跡的に発見され、中国四川省の病院に担ぎ込まれたときの著者の病状は、両手両足重度凍傷、敗血症、DIC症、厳重脱水、極度消痩、心身衰弱、急性胃穿孔、腹膜炎、肺炎性胸膜炎、真菌性腸炎、小腸劇性潰瘍出血、不完全性腸閉塞。まさに満身創痍、死の淵。実際に、開腹手術の途中で15分ほど心臓は止まったそうです。
 写真にも載せられていますが、現地病院の献身的な介護によって著者は回復し、生きて日本に帰国することが叶いましたが、両手の指を失い、両足は膝下15センチのところから切断されました。
 
 ヒマラヤ東端の中国領に位置するミニヤコンカは、標高7556メートル。
 8千メートルに及びませんが、非常な難峰として知られ、1932年にアメリカ隊によって初登頂されて以来、全員が無事で登頂に成功した登山隊はほとんどありません。
 1981年には北海道山岳連盟隊が滑落事故によって8名もの犠牲者をだしています。
 その翌年1982年に挑戦したのが、著者の所属する千葉県の市川山岳会でした。
 ミニヤコンカの麓の街との姉妹都市関係が縁だったそうです。
 パーティはBC以上総勢7名(女性隊員2名)。信じられない少数でしたね。ギリギリでしょう。
 実際の話、登頂アタックには著者(松田宏也)と菅原信で臨みましたが、サポートメンバーのアイゼンがなくなったり、滑落して怪我をしたりして、ベースキャンプと最前線のアタッカーとのブランクが開きすぎてしまいました。
 なぜアイゼンがなくなるのか。あまりにもミスがお粗末すぎる。
 この時点で失敗を認めて登頂を諦めるべきだったと思います。
 しかし、アタックするかどうかは頂上付近の2人の判断に任せられたのです。
 葛藤を抱えるふたり。高山病の症状もありましたが、結局、好天に恵まれたために登頂を決意しました。
 ところが、著者は未曾有の山岳事故を経験した北海道隊の隊長にも話を聞いていたのですが、同じような過ちを犯してしまうのですね。ガスに騙されて頂上を見誤ってしまうのです。すぐそこに山頂があると確信していたのに、ガスが晴れるとまだまだステップがあったのです。そして好天だった天候が急変。吹雪。雪壁に取り付いていたふたりは慌てて雪洞を掘ってビバークしましたが、この時点で登頂は諦めました。下山を決意します。
 しかしそのときには、降り続いた雪によって確かな下山ルートが消えてしまっていたのです。
 さらに不幸が追い打ちをかけます。トランシーバーが凍結で故障してしまいました。
 これで第1キャンプ(4900メートル)と連絡が取れなくなってしまいました。
 そのため、第1キャンプでふたりの無事登頂を祈っていた残りの隊員は、数日待ってふたりの凍死を決めつけてしまいました。キャンプを撤収して下山してしまったのです。

 下山を決意してから19日間。
 著者はその間にパートナーの菅原とはぐれ、手足に凍傷を負い、胃穿孔を起こして激痛に苦しみながら、夢遊病者のようにひたすら下を目指しました。山菜採りにきていたイ族の農民と出会ったのは2900メートル地点でした。
 救いの神となった彼らは、著者の体を暖め、塩水を飲ませたそうです。さすが高地民族だと思う。
 はぐれた菅原は第1キャンプすぐ下の岩場で遺体が発見されました。
 実はこのときの遺体捜索でも菅原と同期の市川山岳会のメンバーが高山病で死亡しています。
 あと数日、残りの隊員が第1キャンプで待っていれば、ふたりは助かったことでしょうが・・・
 それは結果論でしょうか。現に、著者は救助されて日本でリハビリに励みながら「私は被害者ではない、当事者だ」というコメントを残したそうです。

 やっぱり山は怖いとしみじみ思いながら読んでいたのですが、私、ある部分で全身に鳥肌が立ちました。
 前後を読んでも著者はさして深く考えていないと思われ、同じ部分を読んでも私と同じように恐怖の感覚を持つ方のほうが少数かもしれませんが、ものすごく不気味なところがありました。どことは言いません。それくらいどうかしている。
 高山病の症状には幻覚も伴うのは知っていますが、ふたり同時に同じ幻覚や幻聴を体験するはずがないと思うのですね。
 やっぱり山は怖い。でも危険を犯してでも山頂を目指す気持ちはわかる。難しいならなおさら・・・
 ミニヤコンカで亡くなられたすべてのクライマーたちのご冥福をお祈りいたします。


 
 
 
 

 

「そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記」ヨッヘン・ヘムレブほか

 探険史、登山史に最も長く残る謎、そして解けない謎と言われているのが、1924年6月6日にイギリスの伝説的な登山家ジョージ・マロリーが人類初のエヴェレスト初登頂を成し遂げたのかどうかということです。
 成功していたならば、1953年のエドモンド・ヒラリー卿の公式初登頂から一気に約30年も遡ることになります。
 謎の鍵を握るのは、山頂に向かってアタックしている姿を見られたのを最後に行方を絶ったマロリーと、バディのアンドルー・アーヴィンの遺体です。カメラを持っていましたから、ひょっとしたら登頂の証拠が残っているかもしれません。
 それはエヴェレスト頂上近くのどこかで、1924年からひっそりと眠っているはずでした。
 1975年の中国遠征隊のメンバーである王洪宝は、8100メートル付近で西洋人の遺体を発見しました。その遺体はアーヴィンではないかと言われましたが、王はその話を公にして間もなく雪崩で死にましたから、はっきりとした場所がわからなくなってしまいました。
 そして、1999年5月1日。ついに、ジョージ・マロリーの遺体が、75年ぶりに発見されたのです。
 遺体は高所の乾燥した気候のために、驚くほど自然な状態で残されていました。
 本書は1999年の遠征調査隊による遺体発見までの道筋が、1924年のマロリーとアーヴィンの登攀の経過と重なるようにして語られているばかりか、所持品や遺体の損傷の調査などから一番可能性が高いと思われる6月6日の事故の顛末も詳細に推理されています。

 本書の基点も、私がこの前読んだ「エヴェレスト初登頂の謎」トム・ホルツェルらしいですから、というのは山岳史家でマロリー遺体発見の第一の功労者である本書著者のひとりヨッヘン・ヘムレブも、それでマロリーの謎に興味を持ったらしいのです。本書を読む前に目を通しておく価値はあると思います。すると本書で端折られている部分が理解しやすくなります。イギリス登山隊の3度に渡る挑戦が詳細に記されていますからね。
 また、トム・ホルツェルが本を書いたのは遺体がまだ発見されておらず、彼自身も遺体発見の調査に失敗しているので、本書を読むことによってある程度謎が解かれるカタルシスが生まれることでしょう。

 結論から言えば、遺体が発見されてなお、マロリーが登頂に成功したかどうかは不明のままです。
 彼の遺体には、成功すれば山頂に残してくることになっていた妻の写真がありませんでした。
 このことは登頂したことを裏付けているのではないかと思われますが、一方で発見された酸素ボンベや登攀を目撃された時間から類推されるに登頂成功の可能性は低いともされています。
 私が一番感動したのは、今の山岳装備とはまったくレベルの違う粗末な衣服類を彼が身にまとっていたことです。
 信じられない薄着。我々が真冬に街を歩いているのよりもまだ防寒レベルが低いであろう衣服、そして鋲靴。
 昔の人は頑健だというけれど、これでよくもまあ、8千メートルを超えたものだと驚愕しました。
 やはり彼の名は伝説に相応しいですね。成功していようとしてなかろうと、マロリーは超人です。
 個人的には、成功していたのだろうと思いますけど。
 本書も若干、そっちよりに推測されていると思う。夢抜きでね。
 たとえ帰りが真っ暗になろうと、あそこまで行っていればチャレンジしたのではないですか。
 滑落した場所は、第6キャンプに帰る途中でした。夜中に落ちたのだったら登頂成功を暗示しているんじゃないですか。
 いずれにせよ、中国の王が仮に埋葬したとされるアーヴィンの遺体が見つかれば、かなりはっきりするはずです。
 なんで見つからないんですかね。
 本書の捜索隊も、当初はある程度場所が絞れるアーヴィンの遺体を発見するつもりでした。
 ところが、あろうことか捜索開始初日の、わずか数時間で、マロリーの遺体を発見してしまったのです。
 発見した隊員たちが遺体のネーム入りのシャツを調べて、「なんでアーヴィンがマロリーのシャツを着ているんだ?」と思ったほど、意外な発見でした。
 近い将来、マロリーの名誉のためにも、謎が解かれることを願ってやみません。


 
 
 

「エヴェレスト初登頂の謎」トム・ホルツェル/オードリー・サルケルド

 エヴェレストに初登頂した人類は誰だったのか?

 ジョージ・マロリーという名前をどれだけの方がご存知でしょうか。
 私は知りませんでした。夢枕獏の山岳冒険小説を読もうと思って、偶然この名前を発見したのです。
 調べてみると、「どうして山に登るのか、それはそこに山があるから」という有名な問答の原典はマロリーの言葉であり、このイギリス人は伝説の凄いアルピニストで、ある大きな謎を残していることがわかりました。
 いまだ解決していない、マロリーの残した登山史上最大の謎。
 それは、1953年にニュージーランドのエドモンド・ヒラリー卿とシェルパのテンジン・ノルゲイによって成し遂げられた世界最高峰のエヴェレスト公式初登頂のはるか29年前に、実は彼がエヴェレストの頂きを征服していたのではないかという極めて重大な問題で、いまだ続く世界的な論争になっています。
 1924年の6月8日午後12時50分頃、エヴェレストの頂上までわずか数時間の地点で、38歳になるマロリーと21歳のアンドルー・アーヴィンの頂上アタックペアの登攀する姿が、霧の晴れ間からサポートメンバーによって目撃されているのです。
 しかし、彼らが帰ってくることはありませんでした。そのまま行方不明になったのです。
 これはマロリーにとって後がない3回目となるイギリス登山隊によるチャレンジで、また、南極北極探検でまさかの他国に先を越され、残る地理的挑戦として世界に先駆けてのエヴェレスト征服は日の沈まぬ大英帝国の威信がかかっていました。
 はたして、マロリーは地球最高峰の頂きに人類として初めて足跡を残したのか?
 永遠の謎と言われる登山史上最大のミステリーに迫ります。

 しばらくこの謎にとりかかろうと思っているのですが、本書は1988年に刊行された本です。
 そして、本書刊行後の1999年に探検隊によってジョージ・マロリーの遺体は発見されています。
 もちろん遺体の状態は精査され、彼がエヴェレスト登頂を成し遂げたのか調査がなされましたが、それでもまだ結論は出ていません。現在では、本書の著者であるトム・ホルツェルも、本書に書かれた内容とは違う解釈(推測)をしているようです。
 しかし、まず本書を読んだのは、マロリーの日常や家族、交友関係はいうに及ばずイギリスの王立地理学協会やアルパイン・クラブなどの考え方、エヴェレストと隣接するネパールやチベットの国際関係、そして現在とは常識の違う当時の登山事情などこの謎を考える上で極めて詳細で公平な背景が網羅されているからです。
 これからマロリーに関する本を読むにあたって、最大の基礎となる本だと思われます。

 はたしてマロリーは登頂に成功したのか。
 鍵を握っているのは、未発見であるペアのアンドルー・アーヴィンの遺体であろうと思います。
 なぜならカメラが残されている可能性があるからです。
 この21歳のオクスフォード大の学生は、ヒマラヤ未経験ながら頑健で酸素装置などのメカに強く、装備係として3回目の登山隊メンバーとして加えられたのでした。彼をメンバーとして推薦したのは、本来ならマロリーとペアを組んでチャレンジするはずだった地質学者兼登山家のオデルで、彼らの登攀する姿を最後に目撃したのも彼らが最後のアタックに出発した第6キャンプに補給にやってきたオデルでした。当初オデルは彼らの姿を頂上直下のセカンドステップ(岩の崖)で見たと語りましたが、その後、セカンドステップより下にあるファーストステップだったかもしれないと翻したりして、いまだ続く永遠の論争の的になっています。
 なぜ登山経験の浅いアーヴィンをペアにマロリーは選んだのか? それはマロリー自身が当時は信頼性の薄かったという酸素装置による登頂を目指していたからでした。1,2回目の遠征では酸素を使用しなかったマロリーでしたが、ライバルである科学者兼登山家のジョージ・フィンチが酸素を使用してチャレンジするのを実際に見ており、今では当たり前ですが当時は装置自体が重いこともあって異端視されていた酸素装置の使用に踏み切ったのです。おそらくこれが最後のエヴェレストチャレンジだと思っていたかもしれません。1922年の遠征では、マロリーの登攀強行によって現地のポーターが7人も雪崩で死んでいますから、なおさら死んでも後には引けなかったのではないでしょうか。そのためには、酸素装置のメカニックであるアーヴィンを連れていかなくてはならなかったのです。

 実は、1975年の中国エヴェレスト遠征隊のメンバーだった王洪宝という人物が、そのときに8100メートルの地点で西洋人の遺体を発見したと語っているのです。しかし王氏は1980年の日本遠征隊に随行時雪崩に巻き込まれて死亡しており、これ以上の話は聞けませんが、その遺体とはアーヴィンである可能性があります。
 いつの日か、この永遠にわからないと思われていた謎にも、終止符が打たれるときがくるのかもしれません。


 

 
 
 
 

「東京都三多摩原人」久住昌之

 人気ドラマ「孤独のグルメ」原作者の久住さんによる“三多摩紀行”。
 みたま。初めて聞きました。
 著者の造語かと思ったら、ちゃんと文字変換されるということは、こういう呼び方がほんとにあるのですね。
 三多摩とは、東京都の23区と島嶼部を除いた市町村部分のことで、地名としては消滅した北多摩郡、南多摩郡、現在もある西多摩郡のことです。地方民である私にも聞き覚えがあるのは、八王子とか町田とか、多摩湖とか高尾山とか、あのあたり。
 実は、三多摩は明治26年(1893)まで、神奈川県でした。
 どうして東京都に移管されたかというと、東京の水源確保というのが基本的な理由だったようです。
 ちなみに東多摩郡(今は杉並区、中野区)というのもあったそうですが、こちらは明治5年に東京都に編入されています。
 意外な歴史の事実ですね。
 なんでも三多摩には、2万5千年前の旧石器時代から人が住んでおり、発見された石器には長野や静岡のものが含まれているそうですよ。あんがい当時とあまり景色が変わらなかったりしてねえ。

 久住さんは、生まれも育ちも三多摩の三鷹市。現在も住んでいらっしゃいます。
 ですから、まあ、ホームタウンですわな。
 それでも新たな発見が色々あるようで、自分の足でテクテクと三多摩中を歩いていきます。
 多摩湖、秩父多摩甲斐国立公園、武蔵陵(昭和天皇陵墓)、高尾山とか、府中、ドブ川のほとり、多摩動物園、奥多摩の旅館、昔の同級生がやっている飯屋、老父がタバコの空き箱でみすぼらしい小銭入れを作っている実家、などなどを、ラーメンや立ち食いそばを食べたり昼からビール飲んだりしながら、一心不乱に歩いて感想を述べている、それが本書。
 ハゲオヤジの三多摩紀行。ね。
 自分のことを東京人とは思っていないそうで、三多摩原人と自称していらっしゃいます。
 昔から、東京というのは新宿から向こうの23区で、自分が東京人であるという意識は低かったそうです。
 久住さんに言わせれば、ユーミンも八王子出身で多魔美卒の完全な三多摩人で東京人ではない、ということになります。
 もっとも、久住さんは本書刊行時(平成26年)で55歳ですが、子供のときはほんと三鷹市のあたりは小田舎だったそうで、謙遜なのか僻みなのかあるいは誇りなのか、このへんの感覚は私にはちょっとわかりませんねえ。
 おそらく誇りじゃないかと思います。それくらい三多摩が好きなんでしょう。
 「孤独のグルメ」で観ましたが、釣り堀に付設した食堂の回があったでしょう、「兄ちゃんひとつ教えとこうか」の回ですよ。あんな気取らない地味でちょっと廃れたような店が大好きなんですね、この方。

 私は「孤独のグルメ」を観るまでこの方は知らなかったのですが、原作者としてではなく、番組の終わりの「ぶらっと久住」というロケのあった料理店に実際に久住さんが訪ねるコーナーを観て、このハゲの親父が気になりました。
 昼からお酒をいただくことに照れがあるらしく、「おいしい麦のジュースですね」とか「この井戸水最高」とか言ってて、面白いんですよ。井之頭五郎と違って、あまり量は食べません、少食です。
 そういや今週観た「孤独のグルメ」は、ミャンマー料理店で五郎ちゃん、久しぶりに豪快に食べてたなあ。
 どっちかというと、小綺麗な店よりも、焼肉店とかで人間発電所みたいに燃えて食いまくってる回のほうが面白いように思いますが、あのあたり久住さんの地が出てるんじゃないですかね。
 五郎のセリフは、久住さんが自分で考えて演出しているそうですから。
 やっぱセンスありますよね、ただのハゲオヤジではありません。
 本書を読んでも、とても文章がうまくて、プロットもしっかりしています。
 思ってた通りの方でした。
 まるごと久住さんがわかる本です。


 
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