「ルソンの碑 陸軍水上特攻隊の最期」儀同保

 陸軍の水上特攻モーターボート「㋹艇」の戦記。
 著者の儀同保さんは、船舶特幹(船舶特別幹部候補生)一期生。昭和19年9月、水上挺身第二戦隊に配属され、慶良間諸島で死闘を繰り広げた後に捕虜となり、戦後は苦学の末、司法試験に合格した立志伝中の人物です。
 本書は、1900人中1700人が水上挺身隊に配属されて1410名が戦死した第一期船舶特幹出身者である著者が、戦後公文書を精査し、儚く散った同期生の足跡をたどり、知られざる水上挺身隊の苦闘を露わにした稀有な記録です。

 ㋹艇といわれる特攻モーターボートを使用した陸軍水上挺身隊の戦史も著者がいなければ世に出ることなく忘れ去られたかもしれませんし、特にフィリピンに送られた戦隊の方々の、あまりにも無念な想いを後世に残した功績は大きいかと思います。
 実際に㋹艇で敵艦を攻撃した人物の証言も多く取材されていますし、これらの方々の中には著者が同じ挺身隊員であるという理由で重たい口を開いた方もいらっしゃるでしょうからね。
 自分の足でフィリピンの現地にまでいって調べています。昭和50年台の初めですから、治安も悪かったでしょうに。
 戦時中は出撃してから㋹艇が故障して遭難したあげく、現地のフィリピン人ゲリラに捕まり、両足を牛に縛られ引き裂かれて殺された挺身隊員もいたそうですから。いくら日本兵憎しといえど、あまりにも凄惨すぎると思う。
 挺身隊員は出撃したら最期ということになっていますから、武器は剣と拳銃しか持っていません。
 艦船の周りに木材を浮かべたり、夜間には沖合に停泊するなど敵が㋹艇への対処をするようになると、実際には敵艦船への特攻どころかフィリピンの山に篭ってどこかの部隊の指揮下に入り、自給自足の戦闘をするほかなくなりました。
 そして、ルソン島南部のマコロドを守備していた藤兵団市村大隊の指揮下に入った第15戦隊などは、「お前たちは特攻隊なのだから死んで当たり前だ」と強制的に敵への斬り込み隊をやらされ、次々と無駄に命を落としていったのです。
 このへん、著者は腹に据えかねたのか、戦後市村大隊の大隊長だった市村勲元大尉に会って直接問いただしています。「なぜ、水上挺身隊員に優先的に斬り込みをやらせたのか」と。アホの市村勲は「その頃は病に臥せっており命令を出せる状態ではなかった」と言ったそうです。それが本当ならば、副官だった萩野という少尉が独断で命令を下していたことになります。
 いずれにせよ、フィリピンに送られた16個戦隊の挺身隊員のうち、本来の死場所であるはずの水上で死んだ者は、昭和20年1月9日のリンガエン湾での第12戦隊と、1月31日のナスグブ沖の第15戦隊くらいのもので、モーターボートによる特攻など大本営のバカの頭の中だけでうまくいく机上の空論であり、挺身隊員たちは決して自らは望んでいないベニヤ製の棺桶で死ぬどころか、故郷とは似ても似つかぬ五里霧中のフィリピンのジャングルの中で、見果てぬ内地を想いながら亡くなっていったのです。

 著者は私も読んだ益田善雄「還らざる特攻艇」に記述の誤りが見られる、と書いています。
 あっちは海軍の「マルヨン艇」に関することが中心のはずですが、どこが間違っているのかはわからないなあ。
 本書はほぼ海軍のマルヨンには触れられてはおりません。
 陸軍の㋹艇と海軍のマルヨンの一番違うところは、攻撃兵器です。
 マルヨンは250キログラムの炸薬で体当たりするのですが、㋹は120キログラム2個の爆雷を使います。
 当初は爆雷を抱えたまま体当たりするはずだったのですが、テストの結果これでは効果が得られないとなって、艦船に近づいて爆雷を落とし、水深10メートルで爆発させることに決まったそうです。
 この結果、特攻とはいえ助かる望みが生まれたように思いますが、実際には爆雷が爆発すると㋹も吹き飛んだそうです。
 とはいえ、本書には、リンガエン湾で敵艦に手を触れるほど接近して、爆雷を爆発させながら生き残った12戦隊の小金丸種尚さんのような例もあります。
 アメリカは軍籍ではない輸送船などの戦没記録を残していませんから、ひょっとしたら水上特攻に慣れていないうちの戦果は思っているよりも大きかったかもしれません。ただし、あくまでも奇襲が奇襲であったわずかの期間だけのことです。
 また、同じガソリンを使用しながら、マルヨンが整備事故が多すぎたのに比べ、㋹にあまり事故の記録がないのは、炸薬と爆雷の違いのせいだろうか? とも思いました。
 著者も厳しく書いていますが、指揮官はハッキリ言って陸軍のほうがかなり低レベルです。
 もっとも、どちらも外道の兵器であることは言うまでもありません。


 
 

 
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「日本特攻艇戦史」木俣滋郎

 帝国陸海軍の水上特攻艇「震洋」と「四式連絡艇」を豊富な資料を元に研究した本。
 特攻艇というと、航空機による神風特別攻撃隊のような知名度はありませんが、実はこれまでに色々な元隊員らによる戦記が出版されています。震洋隊の隊長だった作家の島尾敏雄の本なんかがそう。
 本書は、それら特攻艇戦記の総まとめとでも言えましょうか。
 その誕生から終焉までの活躍ぶりを、陰と陽の両面から余すところなく伝えています。
 頭が下がるのは、アメリカ側の資料を精査して、日本の特攻艇が損傷を与え撃沈した艦艇を特定しているところです。
 これはこの本しかないんじゃないかな。中にはアメリカ側資料の誤りを指摘されている箇所もあり、さすが木俣さんだと感心いたしました。
 反面、詳しすぎて読み物としては面白みがまったくありません(笑)
 たとえば、第48震洋隊はこの輸送船にどこそこまで運ばれて、どの海防艦が護衛したなんてことまで書かれていますから。
 まあ、海上護衛戦が好きな方にはいいかもしれませんがね。
 「そうか、バシー海峡でアメリカの潜水艦にやれらたあの船は震洋を運んでいたのか」
 とか、ふつうあまりピンときませんからね、一般の方は。
 あと、本書がパッとしない理由として、肝心の主役たる特攻艇があまりにも活躍していないことが挙げられます。
 これは壮大な失敗でしたな。
 規模の割には、ほぼ戦果なしと言っても過言ではありません。
 陸軍の㋹(四式連絡艇)のほうは数字が出ていませんが、海軍の震洋は6千隻を超して生産されていたんですよ。
 終戦のときに残存していたのは、震洋が2千隻超、㋹が7百隻でした。
 海軍のほうは有名な黒島亀人大佐が、軍令部第二部長のときに発案したのが、震洋だそうです。
 船の先に250キロの爆薬を積んで体当たりする特攻モーターボート。
 250キロの炸薬は、航空機の250キロ爆弾が実質爆薬は67キロで残りは鉄なので、航空機の250キロ爆弾4個分の破壊力を持っているということになります。船の腹にでもぶち当たれば、楽に撃沈できそうですよね。
 私も素人考えで、そう思う。しかし、あくまでも想像と実際は違うんだなあ。
 一方、陸軍の方は、震洋と同じころに船舶司令部の鈴木宗作中将が発案したものだそうです。
 こちらは震洋と違って、船尾に250キロの爆雷を積んでいて、敵艦に近づいてそれを落とすというもの。
 落とせばすぐさまUターンできるので(といっても爆発までの猶予は4~7秒)、少し人道的だと思われます。
 まあ、震洋だって当初は、舵を固定して操縦者は体当たりする前に脱出する仕組みだったそうですが・・・
 
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 特攻とはいえ、回天や桜花とは明らかに決死率が違います。
 しかしなぜこの二艇が特攻艇かというと、現実に体当たりをかます隊員が多かったのも事実ですが、その前に、敵艦にたどりつくまでが非常に難関だったということが挙げられるかと思うのです。
 標的で訓練の練習台になった日本の艦艇の乗組員でさえ、「これは機銃で撃退できる」と確信したそうです。
 遅いのですよ、スピードが。せいぜい40~50キロですから。
 敵船団が目の前で投錨してくれなければ、攻撃できません。動いてる船なんてもってのほかです。
 昭和20年1月にフィリピンのリンガエン湾で歩兵上陸艇を陸軍の㋹に撃沈されて、多少痛い目を見た米軍が、特攻艇対策として防御用の材木や、魚雷艇などでのパトロールを強化してからは、なおさら接近することが難しくなりました。
 ベニヤ製ですし、爆薬を積んでいるので、機銃を斉射されればイチコロです。
 ですから、出撃すればほとんど帰ってくることはなかったのです。
 陸軍はともかく、海軍のほうは運用に問題もありました。
 活躍すべき場所、時期に配備ができなかったのですね。
 たとえば、米軍のレイテ島上陸に合わせて一挙に投入すればどうだったでしょうか。
 戦果は大いに違っていたはずですよ。
 元々、これは土壇場で大量に投入しなければ意味が無いと決まっていたのに、戦力の出し惜しみと行き違いで小出しにしてしまいました。その結果、敵に対策されて、ただでさえ少ない命を賭した戦果をなおさら削ってしまったのですね。
 このような外道の兵器を作ったほうもどうかと思いますが、それでもこの島尾敏雄いわく「うすよごれた小さなただのモーターボートでしかなかった。緑色のペンキも褪せ甲板のうすい板は夏の日照りで反り返った部分もでていた。私はなんだかひどく落胆した。これが私の終の命を託する兵器なのか」というように、かけがえのない命を祖国のために投げ出した特攻艇隊員のために、せめてもっと、こういう言い方は変ですが、価値の高まる死に場所を与えられなかった軍令部の責任は非常に大きいと思いますし、彼ら当時の日本の官僚どもは本当クソだと思いますね。


 
 

 
 
 
 
 

「日本陸軍とモンゴル」楊海英

 将校も兵士も一徳一心となって勇敢に戦い、大日本帝国天皇陛下から与えられた神聖な任務を完遂せよ。天皇陛下に忠誠を尽くし、敵を徹底的に消滅せよ。われわれはチンギス・ハーンの子孫だ。祖先の名誉にかけて戦おう。

 これは、1939年日ソが突然激突したノモンハン事件の前に、生徒たちの奮戦を激励すべく、日本が満州に作ったモンゴル人専用の陸軍士官学校である興安軍官学校のパドマラブダン校長が戦場で披露したスピーチである。
 騎兵を主力とした初陣のモンゴル兵は、ソ連軍の砲撃に耐え忍び、勇敢に戦った。
 しかし、関東軍から届けられた日本酒や缶詰などの慰労品は、日系軍官にはモンゴル人将校より倍多く分配された。
 一般のモンゴル軍兵士には何もなかった。 「日本の食べ物だから、口に合わないだろう」との理屈だった。

 日系軍官はいつも飲んで食ってばかりだった。恩賜もモンゴル人兵士にはまったく配らないし、モンゴル人将校も日本人の半分だった。艱難辛苦と生死を共にしている、という気持ちは瞬時になくなった。モンゴル人兵士たちはそこから日系軍官を恨むようになった。これがノモンハンでの敗戦の最大の原因である。

 はい。
 先の大戦中の日本陸軍とモンゴル民族の関係を振り返った近代蒙古史。
 結局、不倶戴天の敵である中国からの独立を目指して新興帝国である日本を利用しようとしたモンゴルと、大陸に満州という念願の地歩を築いて世界的野心に燃える日本の、束の間の“同床異夢”だったということでしょう。
 モンゴル独立の悲願を巡って、互いに互いを利用しようとした両者。
 モンゴルの優秀な若者は日本の陸軍士官学校を卒業し、満州のモンゴル人居住区(興安省)にはモンゴル人青年を教育する興安軍官学校が、内モンゴル(モンゴル自治邦)にはモンゴル軍幼年学校が、いずれも日本の援助で設立されました。
 興安軍官学校は、すべてのモンゴル人少年が憧れる超人気の教育機関でした。
 13世紀に広大な世界帝国を築きながら、その後は没落の一途をたどり、19世紀からは満州人の清朝に帰順したモンゴル。清朝が倒れた後は、遊牧生活の源である草原を開拓しようとする横暴な漢人の支配に苦しんできました。
 何としてでも中国人の支配から逃れたいモンゴル人にとって、この時の日本ほど光り輝く助っ人はいなかったでしょう。
 当初は、日本の軍部はモンゴルの独立を熱烈に支持していたのです。
 しかし、それがいつのまにか独立不支持になり、さらに最終的にはなんと独立阻止へと転換していくのです。
 まあ、このへんは日本の軍部はバカだけども、一度権力を掌握したからというか、「五族共和」「アジア主義」などと吠える割には周辺諸民族を見下しているという、誇り高き島人・日本人の核心の問題でしょうね。
 美辞麗句を重ねながら、上手く回り出すと「モンゴル独立? 知らねえなあ」などとなれば、そりゃ怒りますよ。
 もちろん、本書は内モンゴル(南モンゴル)出身の著者が書いたものですから、モンゴル人のほうにも何か書かれていない問題があったのかもしれませんが、私はあまりそうは思えないなあ。だって、この頃の日本の軍部は傲慢ですからねえ。
 文化の違いというか、馬はモンゴル騎兵にとって家族同然なのですが、日本兵は「貸してくれ」と言ってきかず、こんなところでもモンゴル人が横暴な日本人を軽蔑するきっかけとなったようです。
 チンギス・ハーンは源義経である、という有名な都市伝説(違うか)も、モンゴル人は嫌っていました(当たり前です)。
 戦後、チベットの虐殺を中国人から命じられたモンゴル人騎兵がやったなんてどぎついことまで書かれていますし、出来る限りの公平な立場で、満州における日蒙間の関係を資料にもとづいて包み隠さず報告されていると思います。
 あんがい、この頃のモンゴルらへんがどうなってたのか、多くの人は知らんでしょ。
 勉強になりますよ、この本は。
 もっとも、ソ連側のモンゴル人民共和国(北モンゴル)、チンギス・ハーンの子孫である徳王が宗主であるモンゴル自治邦(南モンゴル)、そして満州国の内部のモンゴル人(後に日本軍の後ろ盾でモンゴル自治軍を設立)と、読んでいて非常に複雑ではありますが・・・

 満州でのモンゴル人兵士と日本軍の反目は、終戦間際ソ連の侵攻目前に至って、爆発しました。
 おそらく、ソ連側にはモンゴル人民共和国がありましたし、同胞ですから、満州のモンゴル人は連絡を取っていたのでしょう。
 一番有名なのは、日露戦争で日本軍に協力したモンゴルの英雄・バボージャブの子息であり、日本の陸軍士官学校を卒業して、東条英機とも面識があったハイラル第十管区参謀長ジョンジョールジャブが起こした「シニヘイ事件」。
 昭和20年8月11日、対ソ連最前線で、ジョンジョールジャブ参謀長らが指揮して、部隊内の日系軍官軍属38名を殺害しました。この後、ジョンジョールジャブ参謀長は、ソ連軍に投降しています。
 そして日蒙親善の象徴であった興安軍官学校やモンゴル軍幼年学校でも、日系教官を射殺する暴挙がなされました。
 もちろん、敗軍となった日本人兵士を安全なところまで送り届けたモンゴル人兵士もたくさんいましたが、一部でどうしてそのような凶行が行われたのか。
 日本に託した南モンゴル独立が夢散となった今、ソ連に手のひらを返したわけではなく、純粋なだけに親友と信じた人間に裏切られたような、それも積もり積もった恨みがあったのだと思います。打算だけではありません。
 何が五族協和かと、平等かと。「騙された」、そんな無念もあったのではないですかね。
 結局、内(南)モンゴルは、あれほど嫌っていた中華人民共和国の支配を受けることになりました。
 戦後、中国共産党は、150万人弱のモンゴル社会のうち34万人を逮捕し、約10万人を処刑したと云われています。
 夢を見さしてハシゴを外した、日本陸軍の罪は重いですよ。


 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」嶌信彦

 1966年4月26日、中央アジアのウズベク共和国(当時ソ連邦・現在ウズベキスタン)の首都タシケントを、直下型の大地震が襲いました。
 約8万戸の家が倒壊し、約10万人の人々が戸外に放り出され、タシケントの街はほぼ壊滅しました。
 このとき、市中心部にある広場(ナボイ公園)に避難した人々が、みんな息を呑むほど驚いたことがありました。
 それは、あの“アリシェル・ナボイ劇場”がどこも崩れることなく、すっくと何事もなかったように悠然と佇んでいたからです。
 タシケントのナボイ劇場は、ビザンチン風三階建て(地下一階)、千四百席を持つ壮麗な建物で、旧ソ連時代では、モスクワ、レニングラード、キエフと並び称される、四大オペラハウスのひとつとされていました。
 ナボイ劇場はタシケントのシンボルです。大地震にもかかわらず凛と立ち続けている姿を見て、涙ぐむ人もいました。
 そして人々は思い出しました。
 この劇場が、第二次世界大戦後、満州から連れてこられた日本人捕虜が中心になって建てたものであることを。
 日本人は捕虜なのになぜあんなに一生懸命働くんだとロシア人やウズベク人が不思議に思う中、将来笑いものになるような劇場を作ったら日本の恥になると、彼らが言っていたことを。
 多くの日本人がシベリア抑留の悲惨な話は知っていても、中央アジアのウズベクで世界でも一流の壮麗なオペラハウスが日本兵によって建設されていたことを、どれだけの日本人が知っているでしょうか。
 本書は、故郷からはるか離れたシルクロードに今も伝わる、実話の日本人伝説です。

 こういうの読むと、なるほど日本人らしいと思ってしまいます。
 真面目からくる責任感と連帯感、そして恥の概念ですかね。
 まあいえば強制労働ですからね、敗戦国の捕虜なんですから。いやいや仕事です。飯もろくなもんではありません。
 それでも、変なものを作ったら日本人の名折れになると、一生懸命にやってしまう。
 その結果、大地震でも崩れないものが出来上がり、ウズベク人をして「さすが日本人だ」と言わしめた。
 いま我が国が落ち目であると思いがちですが、まだまだ我々は誇るべきアイデンティティを持っているのです。
 忘れちゃあいけないですね。

 くだんのナボイ劇場を作ったのは、満州で航空機を整備していた陸軍の工兵部隊が主力です。
 隊長は、永田行夫大尉。まだ24歳でした。以下457名。
 第二次世界大戦でソ連は2000万人の人間が死亡したと言われています。
 このため、経済と国土が疲弊したソ連は、捕虜を使って国を立て直そうとしました。
 満州で武装解除された約60万人といわれる日本人捕虜も、これに使役されました。シベリアでの鉄道敷設などの強制重労働は有名な話ですが、3万人ほどは中央アジアのウズベキスタンへ送られました。
 その中に、永田隊長以下の工兵部隊がいたのです。
 奉天から一ヶ月半、約4000キロを貨車に乗せられてタシケントに到着した彼らの任務は、劇場建設でした。
 しかも、総床面積1万5千平方メートル、総客席1400、レンガ造り三階建てのビザンチン風建築で、設計はモスクワのレーニン廟を担当したソ連の一流設計士であるシュシェフ、建設期限はレーニンの革命三十周年となる1947年11月までと定められていました。
 結果、彼らはこれを立派に成し遂げたことになります。
 もちろん、いろんな問題が起こりました。社会主義であるソ連の収容所所長の管理下で、ノルマが決められ、達成できないとただでさえ少ない給食が減らされ、また職制によっては仕事のキツさが全然違うために仲間うちの揉め事の原因になりますし、事故で死者も出ました。スパイ疑惑もありました。
 それをうまくまとめ上げ、ときにはロシア人に掛けあって捕虜たちの待遇の改善に努力したのが、永田隊長です。
 彼は「劇場建設も大事だが、最も重要な使命は、全員が無事に健康な状態で日本へ帰国し家族と再会すること」を信念とし、隊員たちも永田について行けば必ず道が開けて日本へ帰れると信じ、歯を食いしばって頑張ったのです。
 そんな日本人の姿に、地元ウズベク人も影響され、ときにはロシア人に内緒で食べ物を差し入れたりしました。
 また収容所所長であるロシア人のアナポリスキー大尉が、理解に富む人間だったことも幸運でした。
 アナポリスキー大尉は、永田隊長が素晴らしい人間であることを早いうちから認め、日本人特有の和の精神に対しても理解を深めました。
 こうして、時には演芸会が開かれて、日本人も収容所のロシア人も地元のウズベク人も楽しむという、まれに見る関係ができあがり、早期の劇場建設が可能となったのです。
 後に異動になったアナポリスキー大尉は、ナボイ劇場を作った彼ら日本人の確実な帰国に一役買うことになります。

 ソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地をかけて最良のものを作りたい。そして日本に帰りたい。
 その願いは叶いました。
 1991年にソ連から独立したウズベキスタンのカリモフ大統領は、劇場裏手のプレート「この劇場は日本兵捕虜が建てたものである」を、「ウズベクは日本と戦争したことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘した上で、1996年に新しいプレートを作りました。
 そこには、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナボイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と、まずウズベク語で、ついで日本語、英語、ロシア語の順に刻まれています。


 
 
 

「陸軍潜水艦 潜航輸送艇マルゆの記録」土井全二郎

 秘匿名は、マルゆ。正式名称を陸軍潜航輸送艇といいます。
 帝国陸軍の、陸軍による、陸軍のための潜水艦です。
 陸軍に潜水艦があったことを知っている方のほうが少ないでしょうねえ。
 私は、レイテ沖海戦関連の本を読んでいて知りました。びっくりした覚えがあります。
 海上を半浮上しながらヨチヨチと進む何ものかをアメリカの艦船が発見して「あれ、なに?」と理解に苦しんだとか。
 白昼堂々と浮上航海する、潜水艦としては極めて非常識な船籍不明の物体は、アメリカ軍だけでなく味方の日本海軍からも輸送船に体当たりされたり、船団護衛艦から執拗な攻撃を受けるなど、まったく認知されていませんでした。
 まあ、潜水艦といっても、ろくに潜航もできないような出来損ないのゲテモノだったわけですよ。
 しかし、作る方、やってる方は、必死だったのです。
 海軍の兵站護衛がまったくあてにならない今、太平洋の孤島で死闘を続ける陸軍の兵隊に、弾薬や糧秣を輸送しなければなりませんでした。仲の悪い海軍には秘密にして、陸軍独自に輸送のための潜水艦を設計して作り上げ、そして出撃したのです。
 本書は、謎に包まれたマルゆ隊員による証言を多く取り上げた、陸軍潜水艦戦史の決定版です。

 まず、諸元のだいたいのところ。
 全長49・5メートル、水中排水量346トン。海軍の潜水艦の2000トンと比べると豆です。
 最大速力は水上9・5ノット、水中4・4ノット。成人男性の歩くスピードより少し早いくらいです。
 水中航続時間は4ノットで1時間、最大潜航深度100メートル(絶対、嘘くさい)。
 搭載能力はコメだけなら24トン、乗員は将校3人以下計25人。
 海軍に内緒でどこで作ったかというと、蒸気機関車の工場や、ボイラーの工場で作りました。
 もっとも、途中で海軍にバレて、兵員の教育などを協力してもらっているのですがね。
 バレた当初は、「陸軍が潜水艦?プ」とバカにした海軍も、輸送の負担が減るならば歓迎ということです。
 マルゆのために集められた3500人の部隊は、海軍教育5年間をわずか3ヶ月という、超促成教育を受けました。
 舟とはまったく関係ない満州などの戦車兵が多く集められました。戦車がもう生産できなかったからです。
 まさに、陸のモグラが海のカッパですな。
 昭和18年10月に、愛媛県三島町にマルゆのための基地が開設され、ここで兵員は猛訓練に励みました。
 しかし、まったく海のド素人である陸の軍人が、たちまちのうちに船どころか潜水艦になじめるわけがありません。
 手さぐりの潜航、水圧の恐怖、狭い不自由な艦内、汚れた空気。まさに潜水艦とは忍苦忍従です。
 さらに、マルゆにはトイレがありませんでした。防臭のために重油を入れたバケツとかでうんこするわけですね。
 まったく、どうしてこんなものが出来たのでしょう。
 潜水艦の命ともういうべきバッテリーは程度の悪い粗悪品で、エンジンはディーゼルエンジンではなく、ベッセルマンエンジンという石油井戸掘削用のエンジンを使用し、隠密行動を要求される航海においてこのエンジンはモクモクと煙を吐きました。
 マルゆ1号艇の完成は、昭和18年12月末のことです。
 さっそく風雲急を告げる出撃を命じられ、3隻のマルゆが昭和19年5月、マニラに向かいました。
 歩くようにして、愛媛の三島を出撃してからなんと51日目にして3隻ともマニラに到着しましたが、長旅の影響ですでに2隻は使い物にならなくなっていました。
 残る1隻(マルゆ2号艇)は派遣隊隊長青木憲治少佐を筆頭に救援物資を乗せてレイテ島に出撃、オルモック湾で撃沈されました。
 終戦までに40隻のマルゆが就役し、5隻が沈没、残存した35隻は戦後米軍によって海没処分されています。

 元マルゆ隊員の方の回想も多く、謎に包まれたこ陸軍潜航輸送艇の真実の姿に迫る良作です。
 マルゆの奮闘だけではなく、どうして陸軍が潜水艦を作らなければならなかったかをわかりやすく説明もしています。
 結局、太平洋戦争は陸軍にとって不慣れな島嶼戦だったわけですが、海軍に任せていてはこれはダメだぞと悟ったのが、遅かったのです。もちろん、戦局が劣勢になる前ならば、海軍が陸軍が潜水艦を作ることを許すとは思いませんけども、頑迷な海軍にとっても頭の転換になったかもしれませんし、空母だって陸軍は作ったかもしれません。運用はともかくとしてね。
 出来損ないだけど、陸軍は潜水艦を作った、この意気は買いたいと私は思います。
 海軍だけに輸送を任せていたらジリ貧になったわけですから。時既に遅しですけどね。
 しかしまあ、物質が底をついていたとはいえ、マルゆの設計はもちっとどうにかならなかったですかねえ。


 
 
 
 
 
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