「夜の谷を行く」桐野夏生

 西田啓子、63歳。独身。寂れたアパートでひとり暮らし。
 平日昼間の格安フィットネスジムを利用し、週末は図書館で涼む。
 風呂上がりの発泡酒1本が何よりの楽しみ。
 年金と貯金の切り崩しで、ひっそりと静かに生きている。
 孤独な独居老人の彼女の過去。
 彼女は米軍基地にダイナマイトを仕掛けたこともある連合赤軍の女性兵士だった。


 連合赤軍事件という、一連の騒動が1970年代初めにありました。
 私は生まれておりません。
 でも、あさま山荘事件ですか、クレーンの鉄球で建物の壁をドーンっと破壊している映像を見たことがあります。
 他にもハイジャック事件ですとか、どれがどう繋がっているのかわかりませんが、なんせとんでもないことが色々起こって、ジャパニーズレッドアーミーの名は世界を震撼させたテロリストとして歴史に記憶されています。
 いずれ何か本を読んでみようと思いますが、要は左翼的な革命運動なのではないですか。
 学生運動とやらが盛んだったようにも聞きます。
 現代とは隔世の感がありますが、その理想や手段の是非はともかく、若い人たちが燃え上がる風潮みたいなものがあったんではないでしょうか。どうだろう、今で言う宗教ですね、たとえばオウム事件とは似ているようでまったく非なると私なんかは思うのですけども、ここらへんは勉強不足ですので、よくわかりません。
 しかし、反体制もまた体制のうちであって、共産主義者の独裁ほど恐ろしいものはないとは思いますけど。
 本作では、山の中で集団生活をしていた彼ら連合赤軍が、革命闘争の理想とは程遠い内ゲバの仲間殺しですね、総括対象として大量にリンチ殺人をしていた過去がテーマになっており、逮捕収監された彼ら生き残りが老人となった今にスポットを当てた社会小説若干ミステリー風の作品に仕上がっています。かつての活動家も寄る年波には勝てず・・・
 リアルタイムの方はもちろん、私のように連合赤軍を知らない人間でも、大変興味深く読める良作です。

 主人公は冒頭の通り、西田啓子63歳。京浜安保共闘。元連合赤軍の女性兵士。
 学生運動をしていた彼女は、私立小学校の教師を1年で退職し、赤軍派と革命左派の協同ベースに入りました。
 最高幹部だった永田洋子に気に入られ、米軍基地にダイナマイトを持って侵入したこともあります。
 しかし総括(リンチ)に嫌気が差して仲の良かった同志の君塚佐紀子と共に逃亡。
 下山後逮捕されて、5年余にわたる刑務所生活を送りました。
 この間、裕福だった彼女の家族はめちゃくちゃになりました。
 エリートサラリーマンだった父は退職を余儀なくされアル中になって早死、母も間もなく死に、妹の和子は離婚しました。その他仲の良かった親戚とはすべて義絶状態となっているのが、5年前に経営していた学習塾を閉めアパートでひとり静かに暮らしている2011年現在の啓子の状態です。そんな中、妹の和子とその娘佳絵だけが啓子の頼りとなっています。姪の佳絵は啓子の過去のことを知りません。佳絵は結婚を控えており、もしも先方に啓子の過去が明らかになれば破談になるかもしれぬと和子は気に病んでいます。和子にしては、孤独な姉を可哀想に思う一方、彼女は家族をめちゃくちゃにした極悪人であり、なぜ姉が女だてらに学生運動なんかに入れあげたのかまったく理解ができないのですね。そりゃそうだわ。
 誰にもこれ以上迷惑はかけられない。ひっそりと目立たず暮らすこと、そして死ぬこと。
 しかし、2011年2月、連合赤軍最高指導者だった永田洋子が獄中で死亡したことを発端に、数十年音沙汰のなかった昔の同志や、素性の知れないジャーナリストから連絡が寄せられるなど、啓子の周辺はにわかにきな臭くなってきます。
 そしてかつての恋人で左派活動家だった久間信郎がほぼホームレス状態で啓子の前に現れるに及び、啓子は己の封印してきた過去が得体の知れない流れによって蓋をこじ開けられるのを感じるのでした。さらに3月になって未曾有の東日本大震災が発生し、その流れは激しさを増して啓子の守ってきた平穏を打ち砕いてしまうのです。

 直接手を下していないかもしれないけど、過去にリンチ殺人に加担していた老人。
 やっぱ、普通には接することが難しいかもしれません。
 ちょっと怖いだろうなあ。殺し方がえげつないですから、戦争で人を殺したというのとはまったく違いますよねえ。
 そのベースというのですね、彼らのキャンプが、いかにも幼稚な閉鎖された社会であっただけに、なおさら気色悪い。
 そういう老人をいかにして描くかが、作者の腕の見せ所。
 普通の人間とまったく同じなんだけど、ちょっと激しやすいみたいな感じで収めていましたね。
そして最後まで見せなかった、啓子最大の秘密。
 最大のサプライズ。
 ヒントは、佳絵の赤ちゃんの写真を見たときにあったと思います。和子の夫に似ていると書かれていましたね。
 これは何かを暗示していたんじゃないですか。啓子は薄々感づいていたんじゃないでしょうか。
 古市はきっと、久間に似ていたのですよ。


 

 
 
 
 
 
 
 
 
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「ダブルマリッジ」橘玲

 あらすじ。
 桂木憲一は50歳。大手商社の五井商事の部長をしている。家族は妻・里美と愛する娘・マリ。
 憲一は、急な海外出張を前に、パスポートを再発行をしたことから、思わぬ事態に巻き込まれることになった。
 自分の戸籍が知らぬ間に修正され、婚姻の欄に妻・里美の他にもうひとつの名前が記載されていたのだ。
 その女性の名前はロペス・マリア。婚姻日は25年前の平成2年12月25日で、フィリピン国籍の注記があった。
 さらに数日後、憲一とマリアの嫡子として「桂木ケン」なる人物の名前が戸籍に記載されるにあたり、家族のパニックは最高潮に達する。不良外国人による戸籍の乗っ取りか!? あるいは・・・

 全然知らなかったのですが、外国の婚姻証明書は日本でも正式に通用します。
 しかも、何年経っても有効です。国際法で決められています。
 「わし日本に嫁はんおるし」と半ば遊びのつもりで現地女性と結婚式を挙げても永久に無効にはなりません。
 たとえばフィリピン政府の発行した日本人男性との婚姻証明書を持ったフィリピン人女性が、在マニラの日本大使館に相談に行き、身上書と婚姻届、出生届などの書類を納付して本省の領事課に届いた場合、本書はそれを夫である日本人男性の戸籍を管理している自治体に転送し、自治体は本人に戸籍を修正するよう催告書を送りますが、本人の返答がなかった場合、自治体は書類の管轄である法務局戸籍課に書類を回して、法務局で書類が外国政府による真正なものと確認されると、職権で戸籍にフィリピン人の妻の名前が記載されます。
 すでに妻の名前が記されていても、関係ありません。
 刑法には重婚罪がありますが、民法では配偶者のある者は重ねて婚姻ができないので当事者はその取消を請求できると定められているだけで、当事者による請求がなければ妻がふたりいてもそのままなのです。びっくりだわ。
 しかも、一度戸籍が修正されると、生半可には取り消しできません。
 ただ、本当にバカの日本人がフィリピーナを弄んで捨てたとしたら仕返しされても当然だと思いますが、もしも書類を偽造されたとなると恐ろしいですね。あなたの戸籍、大丈夫ですか?

 新日系フィリピン人という言葉があるそうです。
 2004年の8万人をピークに多くのフィリピン人女性が興行ビザで来日し、スナックやパブで働いていましたが、彼女たちと日本人男性の間に生まれた子どもたちのことです。
 彼らのなかには父親に認知してもらえず、母親の祖国であるフィリピンのスラムで乞食同然の生活をしている子もいます。
 彼らが日本の国籍を取ることができれば、その生活は一変する可能性があるのです。
 とすれば、そこにつけこむブローカーがいたとしても何の不思議でもありません。
 衰えたりといえど、日本人であることは人間らしい生活を営む最低限のパスポートでもあるのです。

 フィリピンパブねえ。
 リアクションが日本人の女の子より大きいので、酔っぱらいが楽しむにはいいかもしれない。
 純情というか、出が日本の地方とは比べ物にならぬほど田舎で貧乏だということもあるのかもしれません。
 そこは人間、いいところでもあり悪いところにもなるでしょう。なかなか消せない部分だからねえ。
 現在はビザの発給が厳しくなり、来日するフィリピン人女性は激減していますが・・・

 小説としては、作者の橘玲(たちばなあきら)さん自体が小説家本業ではありませんから、こんなもんかと。
 20÷5は4と、ちゃんと割り切れる章立ての構成ですよね。
 はじめに社会的なテーマありきで、あとはこの章は憲一が再びフィリピン行ってこの章はマリがケンと初めて会ってとかでただ文章を埋めていくという、文学的には何の面白みもない内容のエンターテインメントです。
 知恵はつくと思いますがね。人によりけりかな。


 
 
 

 
 
 

「電王」高嶋哲夫

 あらすじ。
 小学校4年生でプロ棋士への登竜門・奨励会に入会したふたりの天才少年。
 相場俊之と取海創。
 かたや企業を経営する資産家の御曹司、かたや極貧の母子家庭に育った野生児。
 環境は違えども、同じ学校で出会ったふたりは共にプロ棋士を目指す一心同体の親友だった。
 しかし、12歳のとき、プロとなる4段への昇格をかけて戦った一戦を最後に、彼らは袂を分かつ。
 それから20年。その間、連絡することもなかったふたり。
 大学の情報工学科の教授となった相場は、人工知能の研究で世界の第一人者となった。
 一方、取海は七冠に二度も輝くなど、名実ともに日本棋界を背負って立つ最強の棋士となった。
 そして今、ふたりは将棋ソフト対人間と形を変え、20年の時を超えて宿命の対決に臨む。

 はい。
 あくまでも将棋がテーマなのですが、棋譜はいっさい出てこず、日進月歩の人工知能を取り巻く世界情勢や主人公であるふたりの人間の生き方を主要な背景としているので、将棋小説とは言えないと思います。
 私の個人的な感想によるジャンル付では、社会小説かなと思う。
 人間に挑戦する人工知能の話題については、かなりリアルと云いますか、今の感じそのままですしね。
 優秀な将棋ソフトとプロ棋士が戦う電王戦FINALも実際に行われていますから。
 作者が巻末で参考文献に挙げている「ルポ電王戦」は私も読んでいます。
 もう今度が最後だったかな。
 チェスや囲碁は最強クラスの人間とコンピュータが戦いましたが、結局、将棋は名人クラスがソフトと戦うことを拒みました。
 今となっては、別にコンピュータに負けることは恥でもなんでもないと思います。
 数十年前では有りえませんでしたが、コンピュータの計算速度とプログラム技術、人工知能の考え方自体も加速度的に発展していますから。ディープラーニングというのですか、コンピュータが経験を積んで賢くなっていくのですね。
 もう勝てないですよ。負けて当たり前だと思います。
 実際、ここ数年で、若手のプロ棋士はコンピュータに勝てなくなりました。
 前ならばコンピュータが混乱するような、将棋の定石からはあり得ない一手をあたかもコンピュータウイルスのように使用する作戦が功を奏したのですが、今ではそれも通用しなくなっています。
 逆に言えば、将棋を始めチェスや囲碁への挑戦が、人工知能の進歩を促したと言えるのではないですか。
 人間を上回るものを作ろうと、エンジニアたちは切磋琢磨したのですから。
 それが盤上を飛び越えて、私たちの実社会に役立つような応用の仕方が生まれるのであれば、とても有意義なことです。本作にあったように、難病患者を救う人工知能の研究とかですね。

 ラストも余韻が残って良かったです。
 あれでよかったと思います。
 私は相場が勝ったと思う。
 どちらが勝ってもふたりでソバを食べに行ったでしょうから、ハッピーエンド。
 将棋については、私は素人同然なのですが、小難しい棋譜があっても大概の人にはわかりません。イミフです。
 同級生に県チャンピオンクラスの奴がいたのですが、うんこが人間になったみたいな性格でしてね。
 とても教えてもらおうという気にはなりませんでした。
 でも穴熊とか中飛車とか三間飛車とか、そんなとこまではわかりますよ。
 本作を読んで今更でしょうが、ちょっと吃驚したのは、数学と将棋の深い関係性でしょうか。
 やはり天才のスポーツだなあと思いますね。
 最近までは、コンピュータが人間に最後まで勝てないのは囲碁だと言われていたように思うのですが、あっという間でした。感情がないほうが最後には勝つのが自然だと思います。麻雀とか特にそう思います。
 ですから、相場に一票。取海の感情の起伏の激しさはフラグ的に書かれていると思いますから。


 
 
 

「坂の途中の家」角田光代

 じっとり、ねっちょりした作品。
 脳が疲れる。アクが強い。新米ママが読んだら気分が悪くなるかもしれない。
 乳幼児虐待死事件の刑事裁判の裁判員に選ばれてしまった女性が、被告人である乳幼児の母親に、今の自分の境遇を重ね合わせてしまい、どんどん被害妄想が膨らんで、精神的に追い込まれていく物語。
 まあ、若干、ミステリーとも云えるかもしれない。
 少なくとも、今までの角田光代の作風というか、書いてきたものではありません。
 説明文には「八日目の蝉」「紙の月」に次ぐ作者の代表作となるべき作品、とありましたが私はそうは思いませんねえ。
 しかも、「八日目の蝉」は間違いなく角田光代の一番面白い小説ですが、「紙の月」はねえだろ(笑)
 どれだけたくさんの小説を書いてもすべて標準以上の作家ですが、本当に面白いのは2つ3つしかないなあ。
 作者のレベルアップを示した渾身の一冊「八日目の蝉」と、初期角田文学の代表格ろくでなし男と貧乏彼女の流れに繋がるたぶん「対岸の彼女」(違うかもしれない)、それに作者ならではの器用さが光る即身成仏の伝説を描いた傑作ホラー短編ひとつ。
 いずれも、大好きです。まあ、私の中ではなんやかやで十指には入りますから角田さん。
 万人受けはしないでしょうが、この方バックパッカーなので、初期にはそういう作品もあって共感できましたし。
 して、本作はどうなのか。
 とことん一生懸命に書いているのは、わかります。裁判員について勉強もしています。
 里沙子が文香を電車に置き残してしまったシーンなんて、繰り返し読んでもすごい上手い。さすがと思う。
 結婚はしましたが、子供はいませんよね? それなのにこれだけ新米ママの心理深層が書けるってさすがプロ。
 でも、面白くない。致命的に重苦しい。
 とてもでないですがエンタメとはいえないです。
 まあ、細かいとこは後にしてとりあえずあらすじ。

 山吹里沙子33歳。4年前に設計事務所に勤める2歳上の陽一郎と結婚。
 “くもりのなかった”陽一郎と、結婚するならこのひと、という出会いをし、居心地の良かった会社を辞めました。
 長女の文香は2歳10ヶ月。第一次反抗期のイヤイヤ真っ盛りです。
 里沙子は、母乳がでなかったこともあり、軽い育児ノイローゼ気味。
 それでもやっと落ち着いてきた、そんなとき、裁判所からの郵便物が・・・
 それは6週間後に開かれる刑事事件の裁判員候補者に選ばれたという通知でした。
 「まさか何十人もいる候補者のなかから選ばれないよ」という陽一郎の軽口も束の間、補欠ながら里沙子は裁判員に選ばれてしまうのです。補充裁判員は、判決公判こそ傍聴席になりますが、それまでの審理は正規の裁判員とまったく同じように毎日裁判所まで通わなければなりません。
 早起きして陽一郎と文香の朝食を作り、文香を陽一郎の実家である浦和まで送り届けて預かってもらい、東京に戻って裁判所の公判に出席し、終われば浦和まで戻ってぐずる文香を連れて帰るという慌ただしい毎日が始まるのです。
 担当する事件は、メディアを騒がした乳幼児虐待死事件。
 都内に住む30代の女性が、水のたまった浴槽に8ヶ月になる長女を落とし、帰宅した夫が見つけて救急車を呼び病院に搬送しましたが、すでに長女は死亡しており、女性が「泣き止まないのでどうしていいかわからなくなり、落としてしまった」と、事故ではなく故意にやったことだと容疑を認めたために殺人罪の疑いで逮捕された事件です。
 公判が始まってまもなく、被告の安藤水穂の境遇が、自分と似ていることに里沙子は気づきます。
 一見完璧そうに見える優しい夫。疎遠な自分の実家。かいがいしく世話をしたがる夫の実家、言うことを聞かない娘・・・
 ぐずる娘に八つ当たり、夫の一言に過敏に反応し、姑のおせっかいに不当な怒りを覚える。
 公判が進み、やがて里沙子は被告の水穂に自分を重ねるようになり、いつしか私も彼女のように娘にとんでもないことをしてしまうのではないか、夫は私を陥れようとしているのではないか、あるいは私は頭がおかしいのではないかという思いに取り憑かれるようになります。

 はい。
 結局、どういうことだったのでしょう。
 私の推測では、里沙子は思い過ごし、水穂は殺人でしょうね。
 ですが、いずれもグレーっぽいというか、結論を書かなかったところに作者の思惑があるでしょうし、読む人にとってはどうとでも取れるでしょう。私が推測した主な理由は、里沙子の再就職に陽一郎が反対しなかったこと、水穂の公判の服装が派手になったこと、この二点ですね。私には里沙子の被害妄想と過剰反応に見えましたし、真相はともかく娘の死んだ事件の公判で派手な服はないだろうと思いました。つまりですよ、里沙子と水穂は似ているどころか対称であり、里沙子はおかしく見えて普通の人、水穂は普通に見えておかしいという観点です。それを中間のグレーに引き寄せるのが作者の腕で小説の醍醐味であり、あるいは中間点であるグレーの一線は誰でも飛び越え得るという、錯覚を起こさせるのです。
 とはいえ、陽一郎が里沙子を下に見ている、見たいということはある程度真実でしょう。
 でもそれは、どこにでも転がっていることですし、人間の習性でしょうね。仕方ないことだと言えませんか。
 もちろん女性がこの話を読んでどう思うのか、それは私には永遠にわかりません。
 ひょっとしたら、この小説こそ角田光代の一代傑作だと感じるのかもしれません。
 「坂の途中の家」というタイトル、私は、誰もが人生の坂道で体験してしまう寄り道と読みました。
 そこで家庭を壊して坂を降りるか、辛抱して長く続く坂を登るか、それはあなた次第です。


「人魚の眠る家」東野圭吾

 「うちの家にいる娘は患者なんですか、それとも死体なんですか」

 本当に久しぶりに、冒頭から引き込まれる東野圭吾の作品を読みました。
 本作はいわゆる推理ミステリー小説ではありません。
 初めてかもしれません、この人の、こういうスタイルを読んだのは。
 ただし、この物語のバックボーンには社会的といってもいい大きな謎というかテーマがあって、それが抜粋して私が上に挙げたメッセージなわけですが、これをどう捉えるかによっては、読む人にとっては最大のミステリーになりうるかもしれません。
 科学的な題材を扱うことは、この作家の常ですけどね。
 今回のは、深みが違うような気がするなあ。哲学的な問題もはらんでいるわけだし。
 家族小説としても、母親の狂気ともいえる愛情を巧みに浄化して描き切り、高レベルなヒューマンドラマに仕上がっています。
 娘は治療を必要とする患者なのか、それとも必要としない死体なのか。
 ズバリ、本作のテーマは「脳死」です。
 
 導入。
 結婚8年目だが、別居して1年になる播磨和昌と薫子。
 離婚寸前の仮面夫婦だが、ある日、突然の凶報が舞い込む。
 長女で6歳の瑞穂が、プール事故に遭って意識不明の重体となったのだ。
 ふたりが病院に駆けつけたときには、長時間の呼吸停止により大脳の機能は、ほぼ完全に失われている状態だった。
 担当の脳神経外科医は、ふたりに臓器移植の意志を問う。
 世界的に見て日本の場合極めて特殊だが、現行の日本の法律では、子供が脳死と疑われる状態に陥った場合、親権者が臓器移植同意の意思表示をしない限り、脳死の判定は行われない。心臓の停止をもって死とみなされる。
 「脳死」の定義とは、脳の全機能が停止した状態である。
 現在の基準で脳死と判定された患者が意識を取り戻すまでに回復した例は世界にひとつもない。
 しかし、日本では、親の臓器移植同意の意思が表明されない限り、どれだけ医師が脳死に間違いないと心で思っていても、生きているということになって治療は続行される。臓器移植の意思を表明すれば、脳死判定のテストが2回にわたって行われ、そこで初めて脳死が確定すれば、ただちに治療は打ち切られるのだ。
 つまり、子供が生きているのか死んでいるのか、親が選べると言っても過言ではないのだ。
 長期脳死の状態になっている子供が日本にはいるという。脳は融解しているかもしれないのに、体は生きているのである。
 和昌と薫子は、野原に咲いていた四つ葉のクローバーを、他の誰かのために取らずに残しておいた心優しい瑞穂のことを考えて悲しみにくれながらもいったんは臓器移植を選択するのだが、最期の別れで瑞穂の弟で長男の生人が「オネエチャン」と呼びかけたときに、意識のない瑞穂の手が動いたように感じ、急遽、臓器移植を撤回した。
 脳波はまったくないが、瑞穂の様態は安定し、ついに在宅介護が可能となる。
 播磨家の場合、夫の和昌はBMI(ブレーンマシーンインターフェイス)、つまり脳や頚椎などの損傷で身体が不随になった患者に対して、脳からの信号でロボットアームなどの介助機械を動かせるようにする技術を研究している会社の社長だった。
 AIBS(人口知能呼吸コントロール)で人工呼吸器は取り外され、見た目は自発呼吸をしながらスヤスヤと眠っている状態になり、ANC(人口神経接続技術)によって脳の信号がなくとも、脊髄の反射を利用してこちらから筋肉を動かしてやることも可能になる。
 しかし母親である薫子の、娘は生きているという思いは信念を通り越してやがて狂気まがいとなっていく・・・
 娘は実は死んでいるのに、こちらが生かしているようにしているだけではないのか。
 家族はもとより、親戚や特別支援教育士、日本で臓器移植を待ちながらも制度に阻まれて外国での移植しか選択肢がない難病の患者などの、それぞれの「命の価値観」をまじえながら、物語は然るべき方向へと向かっていくのだが・・・

 はい。
 やっぱ読み終えて一番に感じたのは、薫子の愛かな。
 これは狂気ではない、愛だと思いました。
 それでも、最後にもう瑞穂の身体は抜け殻だからと言って病院に行かず葬式の準備に専念していたにもかかわらず、脳の解剖を拒否したでしょ? あれは、そうはいってもエゴがあったということだよね。
 つまり、脳が融解していたとすると薫子のこれまでが台無しになったということです。
 それが怖かった。実は瑞穂が空っぽだったとされるのが怖かったのです。
 脳から出る信号と心の関係。うーん・・・
 私は、瑞穂は生きていたと思います。
 タイトルは人魚の眠る家であって、人形の眠る家ではありませんからね。
 そういうことでしょ。


 
 
 
 
 

 
 
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