「キャロル」P・ハイスミス

 サスペンスの巨匠・パトリシア・ハイスミスが1952年に別名義で出版した異色の恋愛小説。
 私は非常に楽しめたのですが、これは読む人によって大きく感想が変わると思います。
 映画になりました。去年かな。
 キャロル役には、ケイト・ブランシェット。うーん。
 小説を読んだ感じでは、今のケイト・ブランシェットよりキャロルはだいぶ若いイメージです。
 ただ上品さという意味では、なるほど彼女にピッタリとも思える。
 テレーズのほうは、私は映画には詳しくないので女優の名前は知りませんが、こっちはバッチリ、イメージと合っていましたね。夢を持って、貧しくとも前を向いて生きている可愛い女性のイメージです。ちょっと垢抜けないとこも。
 予告編のトレーラーを観ただけなんですけどね。
 是非とも、これを読んだかぎりでは、映画を観てみたいと思いました。

 さて、どうしよう、少しあらすじ。触りだけ。
 舞台はニューヨーク。時代は1950年代初めでいいと思います。
 父を早くに亡くし、母には放っておかれ、宗教学校で育ったテレーズ・べリヴェットが主人公。
 ニューヨークに来て3年。彼女はまだ19歳。舞台美術家の卵です。
 夢を持ってニューヨークに来たものの、生活することで一杯のテレーズは、デパートでアルバイトをしています。
 そして、そのことは起こりました。クリスマス前。
 人形売り場に立っているテレーズに、ミンクの毛皮のコートを着た美しい貴婦人が近づいてきたのです。
 後でわかりますが、この貴婦人の名前はキャロル。彼女の年齢は最後までわかりません。
 ただ、ひとり娘のリンディが幼いこと、夫は37歳ですが資産家であることから、30歳前後かもしれません。
 テレーズいわく、「キャロルと目が合った瞬間に、すべてが始まった」。
 この不思議な間隔はまたたく間に熱病となってテレーズの心を支配し、彼女はダメ元で、配送先伝票に記載されたキャロルの住所にクリスマスカードを送りました。
 すると、なんとキャロルから返事が来たのです。(キャロルはカードを送ってきたのはデパートの男性店員かと思ったと言っていたが、これは嘘だと思います。彼女はわかっていたはずです)
 待ち合わせて会うことになったふたりは、加速度的に親密になっていきます。
 そして、テレーズのほうは付き合っているリチャードが制止するにもかかわらず、キャロルのほうは夫と離婚協議中であるにもかかわらず、ふたりは、ニューヨークから西部へ車でアメリカ横断のロングドライブの旅行に出発するのです。
 しかし、そこでふたりを思わぬ罠が待ち受けていたのでした・・・

 どうしてこれが面白かったかというと、真に迫っていたからです。
 作者自身のあとがきやら、訳者の解説を読んで、納得。
 この物語は、まったくの仮想ではなくて、ある部分(冒頭と背景)までは真実であったことがわかりました。
 作者のハイスミスは駆け出しの作家であったときに、ニューヨークのデパートでアルバイトをしていました。
 そこで実際に、キャロルのような貴婦人を目にして雷に打たれたのです。
 つまり、テレーズとは、作者自身の分身であったわけです。ハイスミスがレズビアンであることは公然の秘密でした。
 ちなみに、キャロルのほうにも実在のモデルがいて、名前もわかっています。
 それが1948年のこと。そして、得た着想を膨らませて、1952年にクレア・モーガン名義で出版されました。
 こういう小説ですからね、ミステリー路線で売り込んでましたから、名前を出せなかったのですね。
 結果、またたく間に、全米で100万部を売り上げるベストセラーになりました。
 道理で、難しい同性愛の機微が、巧みに描かれていたわけです。
 ちなみに、この頃はアメリカでも同性愛というと、キワモノの変質者扱いでした。
 それをクレア・モーガンことハイスミスが、この小説で、壁を破ったわけですね、思わぬハッピーエンドで。
 私から言わせてもらえれば、翻訳者までがこの作品をレズビアン小説と書いていましたが、別にそういう視点で見なくとも、ひとつの非常に美しい恋愛物語でした。単なる同性愛小説ではありません。そういう評価では心外ですね。
 いい小説だったと思います。


 
 
 
 
 
 
 
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「失われた時のカフェで」パトリック・モディアノ

 2014年度ノーベル文学賞を受賞し、現代フランス文学最高峰との呼び声も高いパトリック・モディアノの代表作。
 エンターテインメントではありませんが、ミステリーのエッセンスがある文学作品です。
 140ページくらい読んで、さあ、これからだ乗ってきた、というところでプッツリ終わりました。
 その後、翻訳者による、やたら長い解説があったのですが、巻末の解説が50ページを超すような本を、初めて読みましたよ。ふつう、紙の本ですから、読みながら後どれくらい残っているか、わかりながら読んでますよね。ですから、まだだいぶページ数が残ってるな、これからクライマックスかなと思った途端に、あっさり終わって解説(といっても作者の紹介)が始まりましたよ。
 そりゃねえだろ、と思いましたね。
 あまりネタばらしはしたくありませんが、けっこう謎は謎のままで残っただけにね。

 ヨーロッパでは有名な方なのでしょうが、日本での知名度は低いと思います。
 ちなみに、本作は2011年に日本で刊行されており、作者のノーベル文学賞受賞という快挙を受けて、増刷されたものが、私の読んだものです。ですから、なお作者の紹介というものが、出版社的に必要だったのでしょう。
 増刷にあたって翻訳も少し直されたようですが、結局、海外作品は翻訳というフィルターを通しますから。
 私にフランス語がわかるはずもなく、これ以外の作品を読んでいないだけに、平中悠一という方の翻訳が、上手なのか奇をてらっているのかまったく判断材料がありませんが、一度通して読んだだけではこの作品は理解しがたく、二度目にさらっと読み直してみて妙に読みやすく思いましたね。ちょっと癖があったのかな。
 行間を読むといいますか、はっきりと起こった出来事が書かれているわけではありません。
 そのへんは詩的で日本の文学作品でも同じなのですが、まあ、少し具体的なことを云うと、ある女性の追跡なのですね、この物語のテーマは。ある女性が、4月に結婚して10月にパリセーヌ川左岸のカフェに現れて、2月に夫のもとに帰らなくなって11月に☆んでしまうまでに、この女性に何があったのかということを、物語の語り手たちが追憶するのです。
 ですけども、出来事がはっきりと書かれているわけではないので、ある程度というかけっこうな程度、読み手の判断に委ねられるわけです。どれが真実であったのか、答えはありません。ラストだってそうですよ。まあ、私はジャネットが一緒にいたということは、“雪”をやって落ちたのだと思いますけどね。
 結局は、新しい世界を求めて逃げ続けていた彼女(ルキ)が、やっとこさ定点(レ・ポワン・フイクセ)=ロランを見つけたと思ったとたんに、人生から飛び出してしまったと。なんたる皮肉。まあ、こういうことなんでしょう。
 切るべきはジャネット・ゴールでしたね。ドクロというニックネーム通りだったということです。
 カフェ・ル・コンデのあった時代は1960年代ということですが、それでもおそらくヘロインと思われる“雪”を持っていたジャネット・ゴールという人間は、毒がありすぎたということです。ルキにとって不快な記憶があったというモセリーニたちのいたカフェ・ル・コンテールの面々と、ルキやジャネットが何をしていたのかはご想像にお任せしますけども。
 
 物語に頻繁に登場する単語であるカルティエは、quartier(地域、界隈)であって、ジュエリーブランドのcartierではありません。界隈(カルティエ)の他にも、定点(レ・ポワン・フイクセ)、目印(ポワン・ド・ルペール)や交差点(カルフール)なんていう、場所を意味する言葉がこの物語ではキーになっているようです。
 セーヌ川を挟んでル・コンテとル・コンセールがあったことも、境界線のメタファーでしょうね。
 あるいは、ルキが短い結婚生活を営んでいたヌイイはパリ近郊の街でしたし、そこから彼女は脱出するのです。
 しかし、カフェ・ル・コンテがいつの間にか潰れて皮革店になっていたように、時が過ぎ去ると、境界線の意味などなくなってしまいます。時は動くのです。時にかかれば、カルティエなどあっという間に姿を変えてしまうのです。
 それでも形を変えないもの、それは人の記憶のなかの存在。なくなってしまって変わりようがないもの。
 それがルキなのです。
 国立高等鉱業学校の学生だった目立たない語り手の彼、私立探偵のピエール・ケスレィ(彼の場合は写真だけど)、そしてバックスキンのジャケットの男(ロランという名前が偽名であったのは謎のひとつ)らにとって、ルキが魅せた、すっと伸びた上半身(ビユスト)、優美で穏やかな所作(ジユスト)、そしてかすかな微笑み・・・は永遠に忘れることができない過去の定点なのでしょう。

 久しぶりにフランスの小説を読みました。
 フランス人というのは、世界で異質の存在であり、なくてはならないキャラクターだと、私は思っています。
 以前にベトナムやカンボジアでウロウロしていたとき、そのパンの旨さにビックリしました。
 私がいたときはバイクに乗りながら機関銃を撃っているような奴がいる時代だったので、パンを食べるのも命がけでしたが、わずか1000リエルの素朴なバケットが、本当に美味しかったことを覚えています。
 どうしてかというと、ベトナムやカンボジアはフランスの植民地だったので、パン作りの伝統が残っているのです。
 かつて日本人は占領した土地に橋や鉄道などを建設し、そのインフラの遺構などは数多く残っていますが、昔日本の植民地だったために旨いにぎり寿司の伝統が残っている、なんて土地はありません。
 フランスは、パンだけ残した。これはある意味、さすがというべきでしょう。橋や鉄道より、残るものですから。


 
 
 

「プラトーノフ作品集」原卓也訳

 プラトーノフというロシア人作家は有名ではありません。
 ドストエフスキーやツルゲーネフ、トルストイという有名どころと比べると、マイナーです。
 しかし、巻末の解説に書かれた“20世紀世界文学の重要な作家のひとり”という言葉は誇張ではありません。
 それは、プラトーノフの最高傑作である「ジャン」を読めば、誰もが納得することでしょう。
 すごいですよ、ジャンは。
 これほどまでに、この物語に書かれた、極限まで追い詰められた生命を、私は知りません。
 これは社会主義礼賛小説なのでしょうか。いや、そんなちっぽけなイデオロギーは関係ないでしょう。
 ロシア文学というのは、やはりレベルが高いです。マイナーなプラトーノフですら、これです。
 なぜだか、わかりません。ロシアは寒くて、暗くて、寂しくて、オッサンがウォッカばかり飲んでるイメージしかありません。私は一度だけ、だいぶ前にハバロフスクに行ったことがあります。関空からXF(ウラジオストック航空)がまだ飛んでいるときで、ウラジオまで行ってから、一式陸攻みたいなプロペラ機に乗り換えてハバロに着きましたが、今までの私の旅の歴史においてベスト3に入る最悪のトランジットでした。まあ、ここでは関係ないので詳しく書きませんが、いろんな面がある国ですね、ロシアは。いい面悪い面。親切なとこ不親切なとこ。幅が広いという言い方もありでしょう。
 特に、広大な国土と、多くの民族を持っています。その2つの点は、本作に収められている作品にも大きく関係しています。私とそっくりな顔をしたロシア人だってたくさんいます。日本という国とはまったく異質な社会なのですね。ましてや、この小説が書かれたころは赤軍の時代ですから。
 優れた文学者を生み出すには、複雑な社会環境と、未だ幸せを知らない無垢な魂が必要なのでしょう。

「粘土砂漠」
 トルクメニスタンとイランの国境の渓谷を、トルクメンの騎馬隊と捕らえられたペルシャ人の捕虜が歩いてる。
 捕虜の中には女もたくさんいた。14歳のサリン・タージは、クルド人の夫の子を宿して2ヶ月だったが、連れ去られてトルクメン人のアタフ・ババの何人目かの妻になった。そして、ラクダと山羊の乳をしぼり、牡羊の数を数え、井戸の水を革袋で一日に百杯、二百杯と汲んでくる、襲撃と砂漠の貧困に疲弊する遊牧民としての生活が始まった。
 何一つ考えることも感じることもなくなる奴隷の生活。やがてサリン・タージは、ジュエリという女の子を産む。
 
「ジャン」
 ジャン。それは、魂という意味。トルクメニスタン北部の地獄の底、サムカルシュ盆地に住む少数民族の名前である。なぜジャン(魂)かというと、彼らは、己の体しか財産がないからだ。世界でもっとも貧しい民族である。
 粘土の土の小舎に暮らし、中に2枚の芦のむしろがあれば、1枚は掛ふとんで、もう1枚の上に寝る。
 そのほかにあるのは、煮炊き用の鋳物の鍋と、焼き物の水挿しくらいで、あとはボロ布くらいしかない。
 河の小魚を獲って食べたり、砂漠の雑草を摘んでスープにする。湿った砂を口に含んで水分を取る。
 彼らは砂漠の乞食である。自分の心さえとうの昔に感情によってではなく、習慣によって鼓動している。
 完全な生者とはいえない。死なずに、夢うつつに寿命を生き長らえているだけの亡者である。
 百数十人いた彼らはいま、40人強しかいない。うち子供はたった3人。たったそれだけの民族が、暗い峡谷、青白い塩土、砂質粘土、どすぐろい屍灰の砂漠の底で、世界から孤独なまま逼塞し疲弊しきっていた。
 モスクワ経済大学を卒業したばかりの、ナザール・チャガターエフは、ジャン民族出身だった。
 15年前、彼は母親に砂漠に捨てられ、羊飼いに拾われ、ソビエト政権に助けられたのだ。
 結婚生活も束の間、党に命じられたチャガターエフは、世界で最も悲惨なジャン民族を救うべく、故郷に向かう。

「三男」
 ある州都で、老婆が死んだ。老いた夫は、6人の息子たちへ母の死を知らせる。
 やがて息子たちが帰ってきた。物理学者の三男は、6歳の娘を連れて帰ってきた。

「フロー」
 フローシャは20歳。科学者である愛する夫が、極東のシベリアに単身赴任になり、二度と戻ってこないのではないかと不安におびえている。一緒に暮らしている男やもめの父ネヒュードは、一度退職しながらも仕事への渇望がつのり、老齢ながらも臨時の鉄道機関士をしていた。
 ロシアは大きく、広い。モスクワからシベリアまで、どれだけ離れていることか。
 愛する夫からは、最初の電報以外、何の便りもない。夫が旅立った駅に行っては臨時で仕事をしたり、夫からの便りを待つあまりに郵便配達夫の職を得たり、機関車以外に興味のない小うるさい父に八つ当たりしたりしているうち、ついにフローシャは究極のイタズラを思いつき実行する。

「帰還」
 もう一度読みたかったのですが、今は時間がありません。
 ここに以前読んだぶんの感想があります。それでプラトーノフを知り、本書を読むきっかけとなりました。
 「百年文庫 月」(カテゴリー・文学アンソロジー参照)


 
 
 
 

「老人と海」ヘミングウェイ

 1950年9月。キューバの漁村。
 やせて骨ばった老漁師がひとり、掘っ立て小屋に住んでいる。
 生活はとても貧しい。食べるものにも事欠く有り様だ。
 それもそのはず、老人はひとり小舟に乗ってメキシコ湾流に漁に出るが、84日間一匹も釣れない不漁が続いている。
 5歳のときに漁を教えこんだ少年が、心配して世話を焼いてくれるので、なんとか生きていられるのだ。
 しかし、老人の海の色と変わらないその目だけは、いまだに元気な負け知らずの目である。
 老人はその若き日、アフリカ航路で働いていた。
 夕暮れの砂浜で見たライオンを、今でも夢に見る。
 不屈のライオン。
 老人は、少年が奢ってくれた一杯のコーヒーだけを腹に流し込み、85日目の漁に出る。
 そして、長い漁師生活でも初めてというくらいの、大物のカジキマグロを延縄で引っ掛ける。
 それは1500ポンド(約675キログラム)、鼻から尻尾まで18フィート(約550センチ)あった!
 これをものにすると、冬を越せるだけの稼ぎになるだろう。
 水の壜しか持ってきていなかった老人は、途中でシイラやマグロを釣って生で食べながら巨大な相手と戦う。
 ロープを背中に回して全身で踏ん張りながら、左手が強張って攣ってしまっても、巨大な釣果を逃さない。
 そして2昼夜の死闘の末、力尽きて浮き上がった巨大なカジキマグロを仕留めたのだが・・・
 血の臭いをたどって襲いかかってきたデントゥーソ(アオザメ)やガラノ(シュモクザメ)との、新たな壮絶すぎる戦いが始まるのだった・・・
 
 世界的な名作でありアーネスト・ヘミングウェイの代表作でもある「老人と海」の光文社新訳版。
 新たな翻訳者は東工大教授の小川高義氏。既訳本への対抗心はメラメラ。
 というのも、私も中学生の頃読みましたが新潮文庫のヘミングウェイの顔が表紙になってるほう、あっちの訳でおかしいところがあると、小川教授は本書のあとがきで明言されています。
 どこかというと、老人がずっと海上でひとりごとを喋っている部分。このときの原文基本形「he said aloud」のaloudは、古い時代の英語では「大声で」という意味だったそうですが、現在では「ささやくのではない普通の声で」と解されるのだそうです。新潮のほうは老人のひとりごとを「大声」「どなる」「叫ぶ」と訳していますが、それは感じが違うとで。
 そういや、私も記憶は定かではないですが、好きな本でしたので覚えているかぎりでは、海の上の老人はやかましかったような気がします。孤独に巨大魚と戦っている自分を、大声で鼓舞するようなひとりごとといいますか。
 しかし、本書では、このひとりごとがつぶやくような、落ち着いたものになっていました。
 「あの子がいればなあ」も、諦め調子。
 どっちがいいかと聞かれたなら、断然本書でしょうね。読んだらわかりますが、こっちのほうが文学的です。

 さて、久しぶりに読んだ「老人と海」で今だからこそ気づいたことと、素直な感想を。
 まず気づいたこと。
 舞台であるキューバは野球が人気なので、メジャーリーグ(MLB)の選手の名前が何人か出てきますが、なかでもディック・シスラーという名前があったのは軽い驚きでした。ディック・シスラーは、イチローが2004年に記録を破るまで、年間最多安打の記録を何十年も保持していたジョージ・シスラーの息子です。これを読んでいてピンときたのは、今だからこそですね。2004年以前に読んでいれば多くの日本人の目には素通りだったろうと思います。
 もうひとつ、けっこう最初のほうですが、ウミガメがクラゲを食べるという記述があること。私は最近、テレビのドキュメンタリー番組を観てこのことを知ってびっくりしました。サンチャゴはかつて亀とりの船に乗っていたことになっているので、こうした記述があったのだろうと思いますが、他にも当時のメキシコ湾における漁に関しての話題というか実際が豊富だなあ、という印象です。もちろんヘミングウェイは釣りが好きなんでしょうが、やはりちゃんとしたモデルがいるのでしょう。これに関して、今をもってはっきりしたことはわかっていないようですけどね。
 で、感想。
 これは昔に読んだときとそう変わらないと思いますが、「老人と海」から教えられることは、人間は死ぬ瞬間まで負けていない、死んでいないんだから頑張らなきゃならない、ということに尽きます。
 明日があるかぎり無限の可能性があるのです。ダメだったら諦めてまた頑張ればいい。
 そして、いつも夢が見られる人間でいること。これが大事。
 さらに、メシが食えないくらいでガタガタ言うな、というのも追加。飽食は厳禁。コーヒー一杯でも有り難いもの。
 死にたい死にたいというのが口癖になってるような最近のダメ人間は、本作を読むべきでしょう。
 ヘミングウェイ自身が自殺したというのは、おいといて。


 
 
 
 
 
 
 
 
 

「フラニーとズーイ」J.D.サリンジャー

 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(カテゴリー海外小説・文学参照)に続く、サリンジャーの村上春樹訳。
 台湾の大学に専門研究センターが出来たという村上センセの訳によってどう変わったのか、読んだことがあるどころか私はこの本の存在さえ知らなかったので、わかりません。でも所々に村上春樹らしさというものは感じられたと思います。特にズーイというキャラクターのセリフの言い回しとかは、らしかったですね。
 まあしかし、難しい小説でしたなあ。
 いったい、どういうことだったんでしょうか。

 「フラニー」と「ズーイ」という2つの章に分かれているのですが、これは時系列で繋がっています。
 フラニーはグラス家7人兄弟姉妹の末っ子で20歳の大学生。一点の曇りもなく見事な外見をもった女性。
 ズーイは下から2番目の25歳の青年。こちらも完全な美形で、売れっ子のテレビ俳優。
 舞台はアメリカ。場所ははっきりしません(おそらく東海岸)が、時は1955年11月。
 まず、「フラニー」ではフラニーが週末にボーイフレンドのレーン・クーテルと会うところから始まります。
 レーンはおそらくアイビー・リーグの学生。自己中でスカした感じの、まあ、友人が少なそうなタイプ。およそフラニーが好きになるような値打ちはないと思いますが、現実の世界でもたまにこういうイレギュラーは見かけますよね。
 どうしてこんないいオンナに、こんなクズの男がくっついているのかという。
 で、最初のうちは、いかにもキャバクラで熱を上げた客の男と軽く受け流すキャバ嬢みたいな展開だったのですが、とにかくフラニーの様子がおかしいのですよ。情緒不安定というか、レーンのことが嫌いになったわけではなくて、彼女はどこか精神的に病んでいるようなのですね。レストランでサンドウィッチを注文したものの一口も食べずに、結局、舞い倒れてしまいます。週末のデートでフットボールの試合やカクテルパーティ、その後のことで期待と欲望を膨らませていたレーンの計画は水の泡、肩すかしを食らわされ、その日の夜のうちにフラニーは実家に帰ってしまうのです。
 いったい、フラニーに何が起こったのか?
 それが次章「ズーイ」で明らかにされるのです。いや、明らかにされようとする、という表現が合ってるでしょうね。
 2つの章の時間差は中1日。グラス家で下から2番目の、フラニーのすぐ上の兄ズーイが、風呂で手紙を読んでいる場面から始まります。フラニーは母親のベッシーが作ったチキンスープを食べようともせず、居間のカウチで寝ています。
 帰ってきてからのフラニーは、わけのわからない文句をもごもご口ずさみ、わっと泣き出したりしていました。
 とてつもなく心配したベッシーは、風呂まで乗り込んでズーイに何とかしてくれと頼むのですが・・・
 実は、フラニーは、けっこうヘビーな宗教関係の書物を読んでいたのです。
 グラス家には7人の子供がいましたが、7年前に自殺した一番上のシーモアとズーイでは13歳、一番下のフラニーでは18歳も年が離れていました。このシーモアと2番めの兄で作家をしているバディーは、ズーイとフラニーが物心がついたときから、宗教哲学をふたりに詰め込んだのです。そこにどういう意味があったのかわかりません。遊び半分であったのか、幼い子どもが長じた兄たちに自ら影響を受けたのか、それはわかりません。しかし、ズーイとフラニーは、善悪はともかくとして精神的に風変わりに育ちました。今、こうしてフラニーが神経衰弱になっているのも、小さなときに聖書に愛想をつかしてブッダに直行したりした、彼女の内なる宗教哲学が影響しているのです。
 これがわかっているのは、シーモアが死んでバディーがいない今ズーイただ一人であり、彼はなんとかフラニーを縛り付けている得体の知れない束縛から彼女自身を解放しようとします。
 これが、この小説の大まかなストーリーとなります。
 ただ、先ほど“明らかにされようとする”と書いたように、この小説は難解であり、私のなかでズーイとフラニーの内なるものが明らかになったのかどうか、それはわかりません。

 その上で少し独断的な解説。
 ポイントは、やはりフラニーが読んでいた巡礼の本でしょう。19世紀のロシアの農民が、休むことなく絶えず神に祈るにはどうしたらいいかを探求するために行った巡礼の旅。農民は悟りを得るのですが、フラニーが口でもごもごしていたのは、何かこれに類した祈りの言葉であっただろうと思われます。この農民が悟ったという休むことなく絶えず神に祈り続けること、これは唱えているうちに祈りが口や唇、頭から離れ、心臓の中心へと移動し、心臓の鼓動と同じように祈りが自律的な身体機能になってしまうという恐るべきものです。
 ズーイはそれは危険だと言いました。人間の人生はそのような狂信的なものではないと。
 彼はフラニーを楽にさせるために、病んで演劇をやめてしまった彼女に、神の俳優になれと言いました。
 そしてイエス・キリストを観客の太ったおばさんに喩えました。
 これは、この世は神様の紙芝居である、何も大したものではないということの表現だと思います。
 結局、自分をなくしているようで逆に自我が増大しすぎたというのがフラニーの症状だったと私は思います。
 だから、ズーイはフラニーの肥大した自我という風船に針をプスッと突き刺して中の空気をシューッと抜いたんです。
 これで、どうでしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
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