「駆逐艦『野分』物語」佐藤清夫

 第4駆逐隊最後の生き残りであり、常に連合艦隊の最前線で奮闘した歴戦の駆逐艦「野分」の戦記。
 開戦劈頭より南方部隊に配属され輸送船拿捕第一号となるノルウェー船籍ヘリウス号を臨検拿捕、ミッドウェー海戦では航行不能となった機動部隊司令艦空母赤城を介錯雷撃、敵制空権下でのガダルカナル、ラバウル輸送護衛、東松二号輸送作戦を成功させ、、マリアナ沖海戦では空母直衛、そして最期となったレイテ島海戦では決死のしんがりとなって、危険をかえりみず栗田艦隊より落伍した重巡筑摩の生存者救出に尽力しました。
 文句のつけようのない、赫々たる戦歴です。全駆逐艦の中でもベスト10に入ると思う。
 著者の佐藤清夫さん(海兵71)は戦艦大和運用士兼上甲板士官を経て、昭和18年12月に「野分」に配属され、通信士、航海長(昭和19年4月)を務められました。戦後は海上自衛隊に入隊し、護衛艦「ありあけ」の艦長をされていたそうです。
 巨艦大和から小さい駆逐艦野分に転任して初めての航海では、船酔いして仕事にならなかったそうですが、さりげなくこのようなユーモラスなエピソードも晒しておられることに、親しみを覚えました。
 「両舷直」という言葉は、軍令部のように陸の机上で仕事をするのではなく、海の現場で仕事をする軍人を指す海軍の言葉だそうですが、終始この「両舷直」の立場から太平洋戦争における軍令部の作戦を痛烈に批判しており、勉強になりました。

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  陽炎型駆逐艦『野分』
  昭和16年4月28日竣工
  基準排水量2000トン 全長118・5メートル
  速力35ノット
  12・7センチ砲連装3基 61センチ4連装発射管
  2基 
  乗員240名
  

 著者が野分に乗り組んだのは昭和18年末からなので、それからの野分の戦闘の描写は貴重です。
 戦闘詳報を仕上げる通信士でしたからね。
 特に圧巻は昭和19年2月17日のトラック大空襲にまつわること。
 アメリカの優勢なる機動部隊がトラック基地に襲い掛かってきたとき、野分は内地に向けて出港したばかりでした。
 練習巡洋艦で帰還後に護衛総隊の旗艦になることが決まっていた「香取」と、ずっと行動を共にしてきた駆逐隊の僚艦「舞風」、トラック島から内地へ帰る一般人を乗せた「赤城丸」、そして野分の4隻の船団は、実に8時間に渡って敵航空隊の連続した攻撃を受けました。香取にも舞風にも生存者はいませんでしたから、その最期の模様を詳細に伝えているのは本書だけです。このことだけでも価値があります。「赤城丸」は空襲だけで轟沈しましたが、「香取」と「舞風」は大破して航行不能になりながらも、まだ浮いていました。野分は巧みに空襲をかわして反撃を加え、ほぼ無傷でした。
 そこにやってきたのは、スプルーアンスの座乗する戦艦ニュージャージー率いる水上戦闘艦艇でした。
 「香取」と「舞風」は、おそらく戦艦巡洋艦群にとどめを刺させるために、瀕死の重傷のまま、航空機による攻撃を中止されていたのです。戦争の趨勢を航空機に奪われつつある水上戦闘艦艇の猛烈な砲火が両艦を襲い、瞬く間に撃沈されます。
 当然、野分も捕捉されていました。ニュージャージーの40センチ主砲弾の弾着は凄まじかったそうです。
 水柱が100メートルくらい上がったと書いてあり、著者も震え上がったそうです。
 野分は、残燃料のことなどまったく考える暇もなく、全窯をフル出力で炊いて36ノットの限界の速さでもって戦場をかろうじて離脱したのでした。
 著者は、レイテ沖海戦の直前の昭和19年9月22日に水雷学校に入学のため、リンガ泊地で野分を退艦します。
 野分がレイテ沖海戦で行方不明になったと知ったのは、半年後に駆逐艦「桐」の水雷長に任命されたときだったそうです。
 野分は、昭和19年10月26日、サマール沖でハルゼー率いる戦艦群の砲撃によって撃沈されました。
 その最期の様子を著者が知ったのは、海上自衛隊幹部学校にいるとき、アメリカの公刊戦史を閲覧したからです。
 それまでの日本の資料では、ひとりの生存者もいない野分の最期はわからないままでした。
 第4駆逐隊(設立当初からの艦は野分だけ)から1艦だけ栗田艦隊に配属された野分は、栗田艦隊反転後、落伍した重巡「筑摩」救出の命を司令部から受け、戦場に引き返したのです。まったくもって、損な役回りでした。
 野分は単艦で危険な戦場に引き返し、大破した筑摩の乗員を約百名救出後、小沢艦隊の陽動に乗って北上したものの再び南下してきたハルゼーの戦闘艦隊の砲雷撃を受け、轟沈しました。
 ひとりの生存者もいません。スリガオ海峡でボコボコにされたあの西村艦隊でさえ、後の収容所では各艦とも数名の生存者がいたそうです。
 野分は歴戦の守屋節司艦長以下乗員272名が全員戦死したというのが通説です。しかし、謎といいますか、非常に意味深なことを著者は書いています。
 著者に寄せられた遺族の話によると、戦後何年か後にフィリピンのある場所で米軍が用地買収の折り日本人の墓があり、海軍少佐高橋太郎という墓標から、お宅の息子さんに間違いありませんかといって、復員局を通じて遺骨が届いたというのです。
 高橋太郎は、著者も知っている野分の砲術長でした。
 このことから、著者は野分が沈没した後、生存者がいたことを確信し、自分も戦闘経験があることから砲術長が生きていたことを土台にして野分の最期の模様をシュミレーションしており、おそらく99%このような事実でしょうから一読の価値があります。
 なお、墓標が書かれていたことから、他にも野分の生存者がいたのではないかと著者は推測しましたが、アメリカ政府にもフィリピン政府に問い合わせても、高橋砲術長の墓標の場所はわからなかったそうです。


 
 
  

 


 
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「艦隊戦闘機隊」早川英治郎・島野嘉吉・原進ほか

 太平洋戦争ドキュメンタリー(今日の話題社)第15巻。
 昭和44年初版の古書です。
 著者自らの戦争体験を著した記事が海軍関連4、陸軍関連4の計8篇。
 小さい文字の三段組で読みづらいのが難点なのですが、内容はボリュームとも申し分なし。
 終戦後まだ20年を経ていない時期の記事ですので、執筆陣の記憶も生々しいことでしょう。
 陸軍関連は、私はまだ勉強不足なのですが、海軍関連は興味深く読ませていただきました。
 特に、終戦まで生き抜いた歴戦の特設掃海艇の活躍を描いた一篇は非常に珍しく、楽しく読みました。
 初めて読みましたからね、掃海艇の戦記なんて。
 あと、謎もありましたよ。
 表題作であるベテランの母艦航空隊パイロットの手記「艦隊戦闘機隊」を、著者である早川英治郎なる人物は初めて聞いたなと思いながらも読み終えると、編集部注記として著者の名前はペンネームと書いてるじゃありませんか!
 何か差し障りがあるのだろうと想像しましたが、編集部注記には「誰であるかは推測できるでしょうが」みたいなことが書いてる。なるほど昭和40年代だとそうかもしれませんが、現在はそれから40年以上経っていますからねえ。
 でもこの謎を解きたい。早川英治郎とは誰なのか?
 鬼のように調べた結果、99%間違いないと思われる方に行き当たりました。
 愛媛県出身、本山航空隊に在籍経験があり、マリアナ沖海戦で空母瑞鶴戦闘機隊として出撃後単機で帰投した経験を持つパイロットということから鑑みて、この経歴に当てはまるのは、池田(藤本)速雄飛曹長その人ではないかと思います。
 複数の撃墜記録を持つ歴戦の零戦搭乗員である池田速雄さんが、なぜどこに出しても恥ずかしくない貴重な自身の体験を公表するのにペンネームを用いたのか、それは謎です。
 
 謎の早川英治郎氏(601空310戦闘機隊)の表題作「艦隊戦闘機隊」のほかの海軍関連は3篇。
「掃海艇かく戦えり」(島野嘉吉・第3関丸乗組・海軍中尉)
 トン数わずか300トン。捕鯨船を改造した特設掃海艇「第3関丸」(乗組士官4名・下士官兵46名)の戦記。
 著者は艇唯一の現役士官(艇長、水雷長、機関長ともに予備役)で、運用、航海、主計などを兼ねた先任士官。
 グァム攻略作戦を皮切りに、ポートモレスビー攻略作戦など激戦のソロモン海域で1カ年余しぶとく生き残り、ついに終戦まで活躍し続けた武勲の掃海艇「第3関丸」の航跡。南方の攻略作戦では機雷掃海のために先陣を切る任務を受け持ち、また海軍の護衛艦不足から船団護衛も務めました。300トンの小さな体に、8センチ水平砲、7・7ミリ機銃、爆雷、掃海具を積んだこの小艦が南方の第一線で生き残った軌跡を読めたことは、非常によかったです。
「駆逐艦と護衛艦」(原進・駆逐艦春雨乗組・海軍工作兵曹長)
 昭和18年1月にウエワク湾で敵潜水艦の雷撃を受け、艦首が切断されながらも不屈の闘志で生き抜いた第27駆逐隊旗艦「春雨」の戦記。健闘むなしく昭和19年6月にビアク島沖で航空雷撃により沈没するまでの生涯。
「不運の駆逐艦夏潮」(大西喬・夏潮水雷科員)
 昭和17年2月8日、マカッサル湾口で被雷沈没した不運の駆逐艦「夏潮」。著者は戦前に艦隊練習中、駆逐艦峯雲が夏潮に衝突破損したことが遠因ではないかと書いています。夏潮が雷撃を受けた中部機械室は、奇しくも峯雲に体当たりされた箇所と同じだったそうです。

 次に、陸軍篇4篇。
「ラバウルの石松」(瀧利郎・第38師団参謀付・陸軍准尉)
 著者は支隊司令部の暗号手。ガダルカナル島での死闘。激戦の903高地。自決用と特攻用の2発の手榴弾が唯一の武器だったそうです。ソロモンで激闘を続けながら、海軍の苦戦を横目で見、早い段階から「海軍の捲土重来はない」と見切っていたそうです。
「ネグロス島攻防戦」(弓削伊三郎・第6航空地区司令官・陸軍大佐)
 レイテ決戦前後の在フィリピン陸軍航空隊の動きについてよくわかる手記です。陸軍特攻隊についても。
 著者は昭和21年3月に復員しましたが、奥さんは終戦後の昭和20年9月に自決していました。
「盗賊山砲隊奮戦記」(志摩辰郎・祭兵団独立山砲隊・見習士官)
 昭和19年3月、日本軍の敗色が濃くなってきてからの大作戦・インパール作戦の光と影。
 著者はインパール作戦捕虜第一号となったが、後に脱出して本隊に合流した驚くべき経験の持ち主。
「さらば天門」(森金千秋・第132師団602大隊・陸軍兵長)
 連戦連勝敗け知らずの支那派遣軍に訪れた、終戦。負けた気がしない。一ヶ月後の昭和20年9月になってやっと占拠地を撤退しました。それから昭和21年5月にLSTで復員するまでの日々。珍しいことが色々と書いてあります。

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「母艦航空隊」高橋定・谷水竹雄・安部井稠也ほか

 帝国海軍の花形・母艦航空隊の搭乗員・整備員による実体験戦記集。
 雑誌「丸」に掲載された記事から、26名29篇。
 いずれも、錚々たるメンバー。よくもまあ生き残ったという歴戦の方々ばかり。
 珍しい名前もありますね、岡嶋清熊とか谷水竹雄とか。
 谷水竹雄さんは、色々な本でお名前を目にしますが実際にご自身で書かれている記事を初めて読みました。
 よほど運動神経が良かったのか向いていたのか、搭乗時間の割には撃墜記録の多い方ですよね。
 なんなら長いの一冊書いてほしかったですけど。
 他にもねえ、ええっ、生きてたんだ! と吃驚するような体験を持っている方の記事もあるんですよ。
 レイテ沖海戦のときに、小沢機動部隊から索敵に飛び立ってハルゼーの機動部隊を発見触接した彗星偵察機の操縦員とか、日本海軍で初めて撃沈された空母となった「祥鳳」の直掩戦闘機隊員であるとか。
 ヨークタウンを撃破した“刀折れた日本海軍の意地”空母「飛龍」の第三次攻撃隊の生き残りとか。
 思わず食い入るように読んでしまいました。
 これ重箱の隅じゃないけど知りたかったとこだよなあ、と思って。
 他にも、縁の下の力持ちである知られざる整備員の戦記も数篇ありましてね、空母に着艦した飛行機がどのように制御されてエレベーターで格納庫に降ろされてそれから何をされるのかとか書かれているわけですよ。
 発着艦や母艦航空隊ならではの洋上航法だとかもね。
 もちろん、各空母の攻撃隊長クラスの方々の手記も多いですから、手に汗握る航空戦の模様も盛りだくさん。
 特に南太平洋海戦で空母「翔鶴」の艦攻操縦員だった萩原末次少尉の手記は迫力あったわ。
 どの方のもそうなんですが、一篇一篇が短いのが惜しい。それぞれ一冊で読みたかったくらい。
 さくっと潮書房が出したのが拍子抜けなくらい、凄い戦記集でした。

 では特に印象に残った記事を抜粋。

 「飛行甲板の主役『整備分隊』戦闘日誌24時」吉岡久雄(601空整備分隊長)
 空母「加賀」「龍驤」「翔鶴」「瑞鳳」「瑞鶴」の5隻の空母に乗り組み、「龍驤」「翔鶴」「瑞鶴」の3隻の沈没時にその場にいた、歴戦の整備将校による、まさに母艦航空整備の生き字引的戦記。
 「御紋章なき空母『大鷹』戦闘機隊初陣記」谷水竹雄(大鷹戦闘機隊操縦員)
 護衛空母「春日丸」の最初で最後の戦闘機隊に配属されたときの手記。同期の杉野計雄と一緒に配属され、鍛えられました。96艦戦ですね。当時の「大鷹」は飛行甲板170メートル、速力20ノットで零戦は心細く、96艦戦と96艦爆を搭載。第二次ソロモン海戦では戦艦大和の護衛として出撃しました。
 「瑞鶴艦爆隊が演じた勝利の海戦劇」堀建二(瑞鶴艦爆隊操縦員)
 宇佐空開隊時からの歴戦のヘルダイバー。江間保隊長の列機として活躍。南太平洋海戦では、数次に渡る攻撃のトリを務めました。たった2機で・・・傷つきながらも生きて帰る、凄い。
 「孤独な空母『祥鳳』珊瑚海に死す」石川四朗(祥鳳戦闘機隊操縦員)
 甲飛5期。祥鳳に配属され、96艦戦を担当(祥鳳戦闘機隊には零戦6,96艦戦6搭載)。祥鳳はポートモレスビー攻略作戦における陸軍部隊輸送の護衛中に撃沈されましたが、このとき著者は上空直掩中。急に敵の艦爆が降ってきましたが間に合わず。母艦が沈み思案中に、デボイネ基地に行けと無線を受けたそうです。「どこだそれ」と困っていると、零戦で分隊長と仲間が誘導してくれたそうです。
 「飛龍艦攻隊のサムライども突撃せよ」橋本敏男(飛龍艦攻隊偵察員)
 ミッドウェー海戦で海軍の最後の意地を見せた飛龍攻撃隊。著者は友永丈市大尉の片道燃料特攻で有名な、飛龍第三次攻撃隊艦攻偵察員として、ヨークタウンを撃破、見事帰還しました。操縦員の高橋利男上飛曹は本当に操縦がうまかったそうですが、飛龍沈没時に戦死してしまいました。
 「翔鶴雷撃隊、南太平洋の激闘」萩原末次(翔鶴艦攻隊操縦員)
 全部すごかったですが、もっとも迫力があった戦記を選ぶとすれば、これでしょうね。
 「準鷹艦攻隊 入魂の航空雷撃の果てに」山下清隆(準鷹艦攻隊操縦員)
 この方、「空母雷撃隊」を著した金沢秀利さんのバディです。新機を受け取るときにテスト飛行は長時間で辛いからと金沢さんらに断られ、主計課に人の重量の代わりになる砂袋をもらいに行ったんですが、ここでも断られ、ならばと主計科の主任クラスをふたり乗せたテスト飛行で艦攻ではギリギリのアクロバットをやって、重症の飛行機酔いに追い込んだそうです。
 他にも郷土訪問飛行で手袋に自分の卒業年度と名前を書いて学校に落としたりとか、歴戦の艦攻パイロットにしては茶目っ気のある方です。
 「『千歳』乗組 母艦整備屋マリアナ奮迅録」安部井稠也(653空整備員)
 安部井さんはこの他レイテ沖海戦で「瑞鳳」の艦攻天山を担当した記事もあります。マリアナでも、千歳で天山の整備を担当しています。飛行甲板180メートルの千歳で天山はギリギリだったそうです。
 レイテ海戦時、瑞鳳の搭載機は零戦8,天山5,爆戦4も実働17機。
 「瑞鶴発 彗星艦偵レイテ沖の歓喜と慟哭」中野宏(653空偵察飛行隊操縦員)
 レイテ沖海戦で敵機動部隊発見触接の重責を全うした瑞鶴発彗星艦偵のパイロットの手記。生きてたんですね・・・日本が優勢のときですら、触接機はたいがいやられていますから。何度も敵機に襲われながらも奇跡的に逃げ延び、燃料尽きてフィリピンの小島に不時着したそうです。この体験の他にも、航空戦艦「日向」で彗星のカタパルト発射の飛行実験をした非常に興味深い体験も寄せられています。


 
 
 

「海鷲 ある零戦搭乗員の戦争」梅林義輝

 人間は社会的動物であり、社会を離れて人間は存在しない・・・という書き出しで始まる異色の戦記。
 それもそのはず、著者の梅林義輝さんは大学の哲学科を卒業した愛媛の県立高校の校長先生でした。
 しかも、この校長先生は弾雨降り注ぐ大空を生き抜いた予科練出身の零戦搭乗員という過去を持っていたのです。
 岩井勉(「空母零戦隊」)や白浜芳次郎(「最後の零戦」)といった海軍のエースパイロットの列機でした。

 著者の梅林義輝さんは大正15年愛媛県出身。
 中学校3年生の昭和17年4月、憧れの飛行機乗りになるべ甲種10期予科練に入隊(入隊1097名)。
 飛練(32期)、戦闘機実用教程を昭和19年1月に修了し、卒業後は築城空などで錬成教育を受け、神ノ池空の教員を経て、母艦航空隊である653空の戦闘機隊に配属されました(のちに最後の母艦航空隊である601空)。
 甲飛10期生中、戦闘機専修者は約350名いましたが、その中で母艦搭乗員になったのは13名だけだったそうです。
 作中では「私は下手だったのに」と謙遜されてますが、本当に下手では空母への離発着はできないでしょう。
 もっとも、一度だけ「瑞鶴」への着艦で失敗して飛行機を凹ませ、罰金10円(今の1万円くらい?)取られてます。
 「瑞鳳」への着艦で慣れていたので、それより大きい「瑞鶴」ならばと油断したそうです。
 653空から601空に配置換えされてからは、「天城」で訓練もしています。
 サブタイトルには最後の母艦航空隊員の手記とありますが、まさにその通りだったわけです。
 昭和20年4月3日の沖縄作戦では、喜界島に不時着しながらもF6Fを1機撃墜しています。
 米軍の公刊戦史に照らし合わせてのことなので、確かなことなのでしょう。
 この後、終戦の寸前まで対B-29の首都防衛に奮迅しました。

 著者の同期である甲飛10期は、敷島隊の面々を初めとして多くが特攻で戦死しました。
 著者が特攻から免れたのは、不思議な巡り合わせがあったとしか考えられません。
 そういう星の下に生まれていたといいますか。
 特攻を推進した201空副長・玉井浅一中佐と飛行長・中島正少佐が居座る悪名高いフィリピン・マバラカット基地に、零戦を空輸したときは、「このままここにいろ」と言われましたが、空輸指揮官である青木泉蔵中尉(海兵72)が「空輸が終われば帰隊せよと命令されている」とそれをはねつけたために助かったのです。
 また、653空にいた当時、隊は小沢艦隊の空母に配乗されて捷一号作戦を戦ったわけですが、このとき著者は国内で零戦を空輸していたために、作戦配置から漏れました。
 もしも参加していたならば、優勢なるハルゼー機動部隊との戦闘を生き抜いたとしても事後のフィリピン(空母を出撃した航空隊は小沢長官の命令により作戦後母艦帰還せずともフィリピンへの帰着が認められていたが、そこには特攻地獄が待っていた)も含めどうなっていたかわかりません。
 このあたりが運命なのですね。
 戦後、予科練出身者への風当たりが強い中、著者は教員を目指しました。
 価値観が180度変わったなかでの転身は、生活のためとはいえ、非常に苦痛を伴うことであったと思われます。
 しかし、それをあえて背中を押してくれたのは、夢半ばで散った同期の予科練搭乗員だったのではないでしょうか。
 旧軍人が手のひらを返したように蔑視されるなか、「生きてるおまえは新しい日本のために頑張れ」という厳しい訓練を耐えに耐えたあげく特攻で散った同期の魂が彼を支えたのではないでしょうか。
 県立高校の教師として、校長先生として新しい日本の時代の若人を送り出した著者は、その思いにきっと応えたことだろうと思います。
 本作で多くのページが割かれている予科練の猛烈なシゴキを反面教師として。
 ある意味、日本が戦争に負けたのは当然でしょうね。


 
 
 
 

 

「航空母艦『赤城』『加賀』」大内建二

 日本海軍機動部隊の主力であった第1航空戦隊大型空母「赤城」「加賀」。
 大艦巨砲主義からの転換を象徴した両艦の設計構造、繰り返された改造の内容、装備の変遷、艦載機の種類、そして1942年6月5日ミッドウェー島のはるか沖に沈むまでのあまりにも短かった戦歴などが紹介されています。
 
 「赤城」「加賀」が生まれることになった当時の背景なども詳述されていましてね。
 こちらのほうの著者の入れ込み具合が、両艦の戦歴の紹介より大きいかも。
 知らなかったんですが、世界で最初に実戦に投入された航空母艦は日本海軍のものなんですって。
 水上機母艦「若宮」が、4機の水上機を搭載して青島攻略作戦(1914・11~12)に参加したのが世界初だそうです。
 4機の水上機は、合計で49回出撃し、敵陣地偵察や小型爆弾による攻撃を行ったそうです。
 すごいですよね、日本海軍の実行力は。航空機の実用性にいち早く着目していたということです。
 さらに、海軍は世界最初の全通飛行甲板を備えた航空母艦「鳳翔」を1922年(大正11)に完成させます。
 この頃はアメリカやイギリスも航空母艦という新しい艦種を研究、建造に着手していましたが、同じように日本海軍も遅れをとるどころか世界のトップを走っていたのです。
 しかし、時代の趨勢はいまだ大艦巨砲主義にどっぷりひたっていました。
 所詮、航空母艦などまだまだ海のものとも山のものと知れぬ、想定外の実験戦力だったと言っていいでしょう。
 八八艦隊。海軍は、戦艦8隻巡洋戦艦8隻からなる重厚な攻撃部隊の設立を計画していました。
 ところが、軍事費の増大に悲鳴をあげた世界各国は一転軍縮に転じます、これがワシントン条約ですね。
 この条約のおかげで、八八艦隊構想は露と消え去り、建造中であった戦艦と巡洋戦艦から空母に転用されたのが、「加賀」と「赤城」でした。「加賀」は41センチ砲10門を備える予定だった戦艦「加賀」級から、「赤城」は同じく41センチ砲10門を備え30ノットの高速を誇る巡洋戦艦「天城」型から、航空母艦へ変身することになったのです。

 なんと空母になった当初は、両艦とも飛行甲板が三段式でした。昭和2~3年に両艦が完成したときのことです。
 一番上が着艦用で、二段目と三段目は攻撃機と戦闘機の発艦用だったのです。
 びっくりですね。当時の試行錯誤というか、まだ航空母艦はこれという決まった形がないのですから。
 結局、搭載される航空機の性能が上がって重量が増しますから、多段式の甲板は一段式に改められたわけですが・・・
 巡洋艦並の20センチ砲も装備されていました。これは沈むまでずっとありました。
 実際、空母が20センチ砲をぶっ放すことがあるでしょうか? 重量の損にしかならんと思うんですが。
 本書の興味というか読みどころは、空母という艦種の黎明期の試行錯誤と、実戦に通用するべく改造につぐ改造を重ねた「赤城」と「加賀」の変遷にあると思います。
 赤城の甲板には傾斜があって、その理由ははっきりしたことがわからないなんて書かれてあるのを読むと、俄然興味が湧きますよね。中央部分が1~2度盛り上がっていたんです。おそらく着艦後の滑走スピードを和らげるためと、発艦の滑走スピードを助けるためだと思われるのですが、それならなぜ他の空母には採用されなかったのでしょうかね。
 それと、イギリスの空母のスタイルを真似たためらしいのですが、格納庫が密閉式なのですね。
 ちなみにアメリカは開放式の格納庫です。飛行甲板の下にありあすからね、格納庫は。
 格納庫が密閉式であると、飛行甲板に爆弾が落ちて甲板が破られて格納庫で爆発すると、もろ全滅するわけです。
 開放式だと爆風が逃げて減殺されるのですが、密閉式だと威力がすべて船内で破裂してしまう。
 ですから飛行甲板は装甲甲板でなければいけないのですが、日本の空母は当初は装甲がありませんでした。
 このために、ミッドウェーでアメリカの爆撃機に実力以上にやられてしまったらしいのです。
 零戦もそうですが、防御の弱さというか匹夫の勇というか、結局、日本の軍部が戦争に負けたのは自業自得ですね。
 はじめの目のつけどころはいいのです。「鳳翔」だって建造できたわけだし。頭は固くない。
 あとがいかんわ。おそらく貧乏性なのかもしれませんね、資源がないから。

 「赤城」と「加賀」の戦歴は、我々の知っている通りです。太平洋戦争開戦から1年もたずに沈んだわけですから。
 強いて言うなら、「加賀」のほうが日支事変に参戦しているぶん戦功があります。
 あと、本書を読むまで気に留めてなかったのですが、歴代艦長のところでおっと思ったのは、赤城の最後の艦長である青木泰二朗大佐。彼はミッドウェーで沈んだ空母の艦長ではただひとり生き残った人物だったのですが、そのことが内地で責められ、辞職に追いやられたそうです。おいおい、と思う。強いて言うなら悪いのは南雲のハゲと戦闘機バカの源田だろうが。
 生き残ることだって勇気がなきゃできないんだよ。
 こんなんだから、上にアホしか残らないのですね。


 
 
 
 
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