「ガニメデの優しい巨人」ジェイムズ・P・ホーガン

 人類存在の意義を問うSFミステリーの傑作「星を継ぐもの」の続編。
 続編というか、もはや一体ですね、上下巻みたいな感じでしょうか。
 作品中の時間経過においても、差はありません。衝撃的なラストが待っていた前作のまんま続きです。
 つまり、チャーリーという人間そっくりの5万年前の“月人(ルナリアン)”の屍体が見つかってから2年余り。
 続けて木星最大の衛星ガニメデの氷の下で2500万年前の太古の巨大宇宙船が見つかりました。
 中には、8フィート(約2メートル半)の異星人の屍体があり、ガニメアンと名付けられました。
 この宇宙船の中には太古の地球に棲息した動物が乗せられており、この謎は本作に引き継がれることになるわけですが、ルナリアンとガニメアンは、かつて火星と木星の間に存在していた惑星ミネルヴァが起源であるということが明らかになりました。
 当初こそ感情的に仲違いしていた物理学者のヴィクター・ハントと生物学者のクリス・ダンチェッカーですが、いまや親友とまではいきませんが、互いの足りないところを補って暗中模索の中、物語の謎を解いていったわけです。
 しかしまあ、前作でも途中までは、読んでいるこちらもなんとなくハリソン・フォードを偲ばせるハントに肩入れして、ダンチェッカーは頑固親父のような頭でっかちの学者だなと思ってましたが、なんと謎を解いているのは彼の方ですからね。
 今作でもそう。どちらかというと、助手のワトソンはハントのほう。
 そして今回はなんと、ガニメデで見つかった宇宙船の主である巨人“ガニメアン”が行きたまま地球人の前に現れるという、衝撃的な展開で幕を開けるのです。

 太陽系から9・3光年離れたイスカリスⅢから脱出した宇宙船「シャピアロン号」。
 読んでてピーンときました、これは人間ではないなと。いや、地球人ではないというべきですか。
 でも、当初の勘では、この船はガニメデの氷の下から見つかった宇宙船ではないかと思いましたが、違いました。
 その宇宙船よりもっと前に、環境的危機の迫るミネルヴァから科学的試験のために外宇宙に出たガニメアンだったのです。
 彼らの推進方法は、地球人の科学では遥かに及ばない、人工的重力によって時空の歪みを作り、その中に絶えず落ちていって距離を稼ぐ方法です。これは理論では理解できるのですよ、この本のまったくの空想ではありません。
 その結果、超光速でイスカリスⅢを脱出した彼らのそれからの20年は、太陽系の時間で約2500万年になりました。
 これはどうだろう、時空の歪みを利用することが光を超えて相対性理論の範疇に入るのですかねえ。
 速さの問題ですから物理学的にちょっと違うような気もするのですが、まあ、そういうことですわ。
 で、彼らは、ガニメデで作業している地球人の木星探査隊の前に現れたのです。
 地球人にとっては、初めてのエイリアンとの遭遇でした。
 ガニメアンは、身長8フィート(2メートル半)、細く突き出た下顎から鉢に向かって膨れ上がった顔、引き伸ばされたような長い頭、どっしりとした大きな上体、親指が2本ある手、カサカサした肌。
 この本で唯一不満だったのは、頭の中で彼らの姿が想像出来にくいことでしょうか。
 ちょっと例えは悪いですが、アントニオ猪木を細くして大きくしてエイリアンにしたような感じ? うーん。
 悲劇的なことに、2500万年後に太陽系に帰ってきた彼らの母星ミネルヴァはもう、ありませんでした。
 ガニメアンは絶滅してしまったかあるいは他の恒星系に移住し、代わって太陽系の新しい主は地球人になっていたのです。

 前作と同じようにSF的なミステリーで展開される本作。
 主題となる謎は、太陽系の覇者であったガニメアン文明に何が起こったかということと、彼らが太古の地球をなにゆえに訪れて地球の動物を連れ去っていたかということです。それに関連する地球人類発生の謎が本作のテーマです。
 ガニメアンは、地球人と違って進化の過程ゆえ競争意識がないために戦争もなく、極めて優しい生物です。
 対照的に、地球人は文明開化以前より争いを繰り返し、極めて好戦的で競争意識の激しい生物です。
 私は、この一見平和的エイリアンがいつ牙を向いて人類に襲いかかるのかと固唾を呑んで読んでいましたが、そんな安請け合いな物語ではありませんでした、まあ、当たり前だけどね、このレベルの小説なんですから。
 秀逸なのは、地球の人類を客観的というか、鳥瞰的に見ていることですね。
 この発想は、なかったわ。
 地球人の特徴である競争意識、そしてそれゆえの科学技術の進歩の速さ。
 これは私が地球人であるがゆえに、当たり前だと思っていたことなんですよ。
 ところが、作者にとってはこれは当たり前ではないのです。
 この宇宙的な哲学概念でもって、地球を人類を俯瞰的に捉えたことに、この小説の根本的な意義があります。
 ガニメアンの視点、それはとりもなおさず、作者自身の視線なのです。
 すごいね、改めてそう思う。
 次が本当に楽しみ。巨人の星に旅立ったガルースたち、彼らの行方は・・・


 
 
 
 
 
 
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「海軍水上機隊」高木清次郎・沢島英次郎・藤田信雄ほか

 殊勲の「敵空母見ゆ」を打電して当たり前のように消息を断った艦載水偵。
 尾翼に斧印の撃墜マークを描いて勇敢に戦ったショートランド基地の二式水戦。
 アメリカ本土を爆撃したことで知られる世界で日本海軍だけが実用化した小型潜偵。
 戦後アメリカ軍が日本機のなかでもっとも興味を示したという傑作飛行艇・二式大艇。
 大戦末期にパナマ運河爆撃の秘命を帯びキラ星のごとく現れて散った最後の傑作水上機・晴嵐。


 海洋国日本の底力を世界に示した不屈の闘魂・海軍水上機隊戦記集。

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 軍事雑誌「丸」の海軍水上機関連の記事を集めたもの。
 執筆陣の顔ぶれは錚々たるメンバーで、巡洋艦の飛行長から水上機基地の幹部や、歴戦の搭乗員、テストパイロット、零戦生みの親堀越二郎が二式水戦(零戦にフロートを付けて水上機にした機体)を語るなんていう掘り出し物もあります。
 数少ない飛行艇幹部の日辻常雄さんの手記もあり、ここで前に単行本も紹介しましたが、相変わらず九七式贔屓だなとは思うものの、やはり語り口が熱くて、思わず胸がジーンとなりますねえ。
 惜しむらくは、それぞれのボリュームが少ないこと。
 全部で32篇の記事があるのですが、個別に10ページくらいしかありません。
 大戦中の水上機の活躍や戦績を伝える貴重なものばかりで、すべて単行本で読みたいと思うものばかりでしたから、もったいないですね。まあ、仕方のないことなんですけど。
 陸上機や機動部隊の航空機に比べて地味ですが、日本の水上機は非常に活躍しました。
 艦隊の前路哨戒から、敵艦隊索敵、敵飛行場夜間爆撃、魚雷艇攻撃、輸送船団護衛など、かゆいところに手が届くような、縁の下の力持ち的な活躍を、大戦中全期に渡って一貫して成し遂げました。
 艦隊決戦の前には艦載水偵が射出されて300海里くらいの索敵を行うのですが、海上をたった1機で孤独に突き進み、敵艦隊にぶち当たった機は「敵空母見ゆ」を打電して、味方艦隊に逐一情報を送り届け、そのうち敵戦闘機にやられるのでしょうね、当たり前のように消息を絶つパターンが多いのですが、殊勲の割にはあまりにも儚いです。
 仕事の割には、言い方は悪いですが使い捨てのような感じでね。
 ここではマリアナ沖海戦のときの索敵の手記(江藤圭一・重巡最上飛行長)が載せられていましたが、なんせ最後の大決戦でしょう、各艦載機が飛行長まで動員してベテラン揃いで決死の索敵行に向かうわけですよ。それでも厳しくて当初の予定通りの位置に艦隊はもういないわけです。真っ暗闇の大海原で迷子になってしまうのです。それでも奇跡的に燃料ギリギリで帰投した自分のところの水上機を、「よくぞ帰ってきた!」とばかりに巡洋艦が羽を広げて迎えるように、大きく回頭して波を消して、負け戦で敵潜水艦に雷撃される危険があるにもかかわらず水上機を着水させて揚収するのですが、思わずホロッとしました。
 水上機は九州出身の搭乗員が多かったそうです。だからかな、熱いですよ。闘争心旺盛だし、ここでも土壇場でそれまでしゃべっていた言葉がいきなり「ですバイ」や「それでよかタイ」とかになってほっこりしました。
 これも日本の水上機が強かった一因でしょうな。
 また私は零式水偵とかのフォルムが非常に好きで、今のロードスターに通じるような日本式のハンサムなデザインだと思っています。見たことのない写真も載っており、難点はあるものの水上機好きにとって本棚の真ん中を飾る一冊ではあると思います。
 
 すべての記事を紹介したいのですが、無理なのでなかで印象に残ったものを書いておきます。
 「晴空」という二式大艇の輸送機型のエピソードで、著者は連合艦隊司令部付き「晴空」機長の堤四郎少尉。
 彼は長官直々の命令を受けて、とっくに制空権のなくなった昭和20年4月22日、太平洋を突っ切ってブーゲンビル島のブイン基地に援助物質を空輸するのです。図体のバカでかい飛行艇単機で、ですよ? 決死です。
 これを読むまで、こんなことがあったことすら知りませんでした。
 ブイン基地には陸海軍の将兵約5万人が敵中に孤立して残されていましたが、もはや潜水艦による輸送さえ無理な頃の話です。マラリアの薬であるキニーネが主な空輸物質であったそうですが、本当によく成功したものだと思います。
 到着すると、第八艦隊長官の鮫島具重中将から再三の招きを受け、帰還への整備で忙しいなか行ってみると主計科長直々の心づくしによるヤシとバナナで作られた大きなケーキが用意されており、その上には「ありがとう」とデコレーションされていたそうです。
 そして幹部総員が一斉に起立して、搭乗員に椰子酒を振る舞ったそうです。
 鮫島中将は、ここでも紹介したどん亀潜水艦長の本にも登場していたので、よく覚えていました。愛すべき人です。
 彼は病床に臥せっており、この堤機長の飛行艇で内地に帰還したのです。
 

 
 
 

 

 

「羅生門・鼻・芋粥・偸盗」芥川龍之介

 無性に芥川が読みたくなった、と云えば私に似合わぬ高尚な様子ですが、本当のことなので仕方ありません。
 たまには、こういうときもあるのです。
 久しぶりに、学校の国語の教科書を読んだような気になりましたが、感じが違うのが面白いところです。
 この岩波文庫には、作者が得意とする王朝物(平安時代の日本に題材をとった作品)が4篇収められていますが、どれもとても読みやすいですね。
 いずれも大正4年から6年にかけて、彼の名前が売れてきた時代に重なる作品群です。
 「偸盗」は初めて読みましたが、なかなか迫力があって、大正時代の小説とは思えないくらい、平成の時代小説と言っても通用するんじゃないかと思いました。ちょっとグロいですが、オチもスッキリしていていいです。
 「芋粥」は、今回一番読み返したかった作品。
 芋粥とはどんな食べ物だったのかを検討するためでしたが、考えたらジャガイモもサツマイモもあるわけないんですよね。
 山の芋とは、山芋のことだろうね。山芋のお粥って変じゃありませんか?とろろごはんでもないし。
 でも、宇治拾遺物語に「利仁芋粥の事」という記述があるのだから、そういう食べ物があったことは間違いありません。
 山芋を米の中に混ぜて、甘葛(あまずら。甘茶蔓みたいなものだろう)で煮たもの。甘い、山芋入のお粥だろうと思われます。
 これが、平安期の当時ではご馳走だったそうです。
 「羅生門」「鼻」については、今更どうこうもありませんが、「羅生門」は黒澤明の映画のイメージが強いですね。崩れかかった楼門のスチールがなんとも言えません。都を南北に貫く朱雀大路に連なる平安京の正門なのですが、都に災いが続いて、すっかりさびれてしまっていたのです。奈良の平城宮址を知っている方ならばわかると思いますが、ただの関所や門を想像するのではなく、人が登れる階段を持った小さな城という認識で読んだほうがわかりやすいと思います。
 「鼻」はそうだな、ある意味一番教科書向けというか教訓めいた話であると思うのですが、手塚治虫のお茶の水博士よりも大きな鼻を持った僧侶が、鼻が小さくなる方法として、鼻を湯で茹でて弟子に足で踏ませると毛穴から油がギュッギュと出てきて鼻が小さくなったというのが、なんとも絵空事ばかりではないような気がして、ひょっとしたらそんな病気が本当にあったのではないかというような気にさせられましたね、少々。

「羅生門」
 地震などの災いが続く京の都。平安京の正門である羅生門もすっかり寂れている。ここに、ひとりの下人がやってきた。彼は、主人から暇を出されて途方に暮れている。ちょっとした雨宿りのつもりであったが、何やら階上で気配がする。下人が登ってみると、ひとりの老婆が、女の屍体から髪の毛を抜いていた。かつらにするのだという。

「鼻」
 池の尾(宇治)の僧侶である禅智内供の“鼻”は有名である。なんと上唇から顎にまで鼻が垂れ下がっているのだ。彼はずっとこの鼻で苦慮してきた。といってもどうにもならない。しかし老年になって、どうやら本当に鼻を小さくする方法があるらしいと聞き及び、思い切ってそれを実行したのだが・・・

「芋粥」
 藤原基経に仕える侍に五位という者がおり、40歳を過ぎていたが何をやってもぱっとせず、周囲からは軽んじられて、京童たちかたも赤鼻と呼ばれてバカにされていた。彼の唯一の欲望は、彼の身分では一年に一回味わえるだけの芋粥を飽きるほど食してみたいということだった。するとある日の集まりでこれを伝え聞いた藤原利仁が、五位に芋粥を飽きるほど食わせてやろうと企んだのである。日を改め、恐縮しながらも芋粥食いたさに利仁についてきた五位であるが、行けども行けども利仁は馬の歩みを止めようとはしない。そのうちに京の都どころか、山賊の跋扈する越前への山道へと出てしまう。

「偸盗」
 沙金は年の頃25,6、洛中を騒がせる盗人の頭であり、極めて美しく淫乱な女夜叉である。偶然に彼女の集団に取り込まれ、仕方なく悪事を働くようになった太郎と次郎の兄弟は、同じように沙金に惚れて恋敵になった。太郎は疱瘡を患った隻眼の醜男であり、弟の次郎は見目整った美男である。ある日、沙金は押し込み強盗に見せかけてしつこい太郎を抹殺することを次郎に持ちかける。次郎は一瞬たじろぎながらも、沙金欲しさに目が眩んで実の兄の殺害の企てに首肯してしまう。
 ところが、当日の押し込みで思わぬことが勃発するのであった。
 殺害を目論まれていたのは、太郎だけではなく、次郎自身でもあったのだ。恐るべき沙金・・・

「ウォーク・イン・クローゼット」綿矢りさ

 なんだかよくわかりません。
 2013年と2015年に『群像』に掲載された中編小説2篇で構成されたのが、本書。
 正直言って、綿矢りさの書いたものの中では、下の中の部類。
 これが他の作家の書いたものならいざしらず、綿矢りさらしさがまったく感じられない中途半端な作品です。
 どうしちゃったんだろうねえ。
 ひょっとしたら、創作の泉が枯れちゃった?

 史上最年少で芥川賞を受賞して颯爽と文壇にデビューした綿矢さんですが・・・
 私は同世代の者として、非常に注目しておりました。
 ちなみに芥川賞を同時受賞した金原ひとみも大好きな作家です。
 このときの芥川賞は30年に一度くらいの、豊作であったと思っています。
 綿矢りさ、金原ひとみ、どちらも稀有な女流小説家であることに間違いありません。
 まあ、最近確かにふたりともあまりパッとしないんですがね。
 ただ金原ひとみの場合は、情緒不安定ゆえの爆発力があり、「蛇にピアス」「マザーズ」など彼女にしか書けないものがあることは事実であり、絶対的な強みがあると思います。本が売れる売れないは別にしてですよ。
 ところが、綿矢りさの場合は、例えが難しいですが、特色がパステルカラーなものだから、差別化が難しい。
 その中でも、傑出した人間観察力でもって、これぞ綿矢りさというものを生み出してきました。
 私が一番好きなのは、「かわいそうだね?」に入っている「亜美ちゃんは美人」という作品。
 これは、読みながら物語の登場人物と同じタイミングで泣けるというものすごい小説で、そのどこまでも深い人間分析力(とくに女性に対する)には、感動というよりむしろ背筋がゾクッとするものを感じさせられたと思います。
 あれは、綿矢りさの代表作。間違いない。
  ところが、最近はらしくありません。
 なぜでしょうか。
 ひとつは、これまでの作品だと、小説の登場人物の年代に書いている自分自身が近いということがあったと思います。
 ところが、物語と違って人間は年を取りますから、オバサンになることによって、これまで自分が作っていた若者の世界からの齟齬が出てきたのではないかということ。自分が若い時と今の若い世代ではやはり、環境が違いますからね。
 だから、「大地のゲーム」みたいに作家として新しい方向を目指そうとして失敗している状態なのではないですかね。
 本書に収めれた2篇のお話も、なんとかエンタメ性を持たそうとして中途半端になって失敗しています。
 途中まではそれも成功しかかっているのですがね(私ものめり込んだ)、行き着くところがなんだかおかしい。
 結局、何が言いたかったのか、なんの話だったのか、わからないのです。
 予算のないVシネマみたいな、安物の話になってしまいました。近所のおっさんでも書けると思う。
 本当に、綿矢りさらしくない。
 復活を熱望しています。

「いなか、の、すとーかー」
 故郷のど田舎に帰って製作に励む若手陶芸家が、東京から追いかけてきた熱烈なファンにストーカーされるというストーリー。物語は二転三転します。途中まで、綿矢りさの新境地かと思って楽しんで読んでいました。
 が、薄っぺらい。Vシネ。結局、なんだったの?という。
 田舎のストーカーとは、都会に対する嫉妬であるという本筋で描ききれていません。
 ただ、ストーカーによる事件が最近多発してますから、偶然ですが、それに関連付けて読むことができました。
 愛しながら憎むというね。愛=憎悪ではないはずなのに、どうして両者は成立しているように見えるのか。
 見えるだけで両立していないのか、あるいは他人の男女間で愛という関係は幻かもしれません。
 自分の親や子供を愛するように、恋人や配偶者は愛せないのではないかということです。
 だから自分だけのものというように、取り込みたがってしまうのですね、性の対象だから。
 
「ウォーク・イン・クローゼット」
 これもよくわかりません、物語に芯がないです。
 早希という28歳のなかなか恋愛が成就しないOLが主人公。彼女は洋服のことが好きでたまりません。
 彼女には、売出し中のタレントである、末次だりあという幼なじみの親友がいて、彼女の住居には仕事柄、ウォークイン・クローゼット、つまり衣装専用の小部屋があるのです。
 早希は恋愛に真面目であるがゆえに、色々な男性とデートして本当に自分に合う相手を見つけようとしています。
 パネェ君(いつもパネェ!と叫ぶ笑)や、怪しい紀井さん、本命の隆史クンとかですね。
 ですから、洋服を男に喩えるということが、この表題作の展開の元であり意味でもあるかと思ったのですが、終盤、だりあがパパラッチに襲撃されたりして、思わぬどっちらけの方向に走ってしまったのは、本当に残念でした。
 面白かったのは、パネェ君だけ。
 以前の綿矢りさならば、早希とだりあの幼い時からの確執を混じえながら、本当に深い長編を書けたと思います。
 これほどまでに薄っぺらいと、もうなんとも言いようがないですね。


 
 
 

 
 

「永い言い訳」西川美和

 「悪いけど」
 「何」
 「後片付けは、お願いね」
 「そのつもりだよ」
 扉は閉まり、夏子の足音は遠ざかり、玄関を出て行く音がした。
 それが、幸夫と夏子の、別れの挨拶となった。


 突然のバス事故で妻を失った男のその後を描く、ヒューマンドラマ。
 彼が、他の誰のためでもなく、梅根からでもなく、ただ妻を思って泣くまでの、半年間の“永い言い訳”。

 直木賞の候補にもなりました。
 作者は映画監督の西川美和。映画化されて今年の秋には公開される予定です。
 どの俳優ならばこの主人公が似合うかと思いながら読んでいましたが、主演は本木雅弘だそう。
 なるほど。
 文壇のジョニー・デップは、モックンか。
 この小説が読み手にとって面白いかどうかは、主人公の幸夫にどこまで感情移入できるかどうかにかかっていますねえ。彼は大学の同級生だった夏子と偶然再会して入れあげて結婚したわけですが、出版社の仕事を辞めて昔からの夢だった作家を志し、10年近く売れなかったあいだ、美容師だった夏子に養ってもらっていました。
 しかし幸夫の小説がついにブレイクし、テレビのバラエティに出るような人気者になってから、ふたりの関係は次第に冷えていき、ついには修復不能なところにまできていたのですね。いや、もうお互いにいまさらどうこうしようという気持ちにはなりませんでした。子供もいないし、中年だし。
 20年近く切れ目なく暮らしてきたふたりの別離は突然やってきます。
 高校の同級生と旅行に出かけた夏子が、ツアーバスの転落事故で亡くなったのです。
 幸夫は、その知らせを、別の女性との情交直後に知らされました。
 彼は、妻が亡くなったとき、浮気をしていたということですね。
 ここで、読んでいて私はムカつきました。幸夫にはなんらシンパシーを感じず嫌な野郎だなと思っていました。
 実際、幸夫は泣きもせず、現地で妻を荼毘に付し、冷静で沈着に諸々の手続きやら整理を流れるままに行いました。
 周囲はそれもショックのせいだろうと考えていましたが、どうだかわかりません。
 夏子との結婚生活が現実味がなくなっていったのと同じように、妻の死にも現実感がなかったのだと思います。
 しかしこの後、幸夫は夏子と一緒に死んだ同級生の家族である大宮一家と、不思議な交流を持つようになります。
 そして、そのことが、幸夫を変えていくことになります。いや本来の人間に戻してくれることになると言うべきかな。
 大宮家は、妻に先立たれ、長距離トラックドライバーの夫の元に、小学校五年生の息子、まだ幼い娘が残され、途方に暮れていました。誰かが幼い娘の面倒を見てくれなければ一家が回らないのです。そこに、小説家という自由業で時間の融通が利く幸夫が、事の成り行きから入り込むこととなり、家族とのつましい交流を通じて、嫌いだと思い込んでいた子供に対しても愛情が芽生え、自分がひとりで生きているのではない、他者とともにあるのだということを理解していくのです。
 それまで自分勝手に気のままに生きてきた彼ですが、他人を想う、ということを知るのですね。
 そんな馬鹿ないまさらと思う方もいるでしょうが、あんがい、現実の社会においてもこのことがわかっていない人はたくさんいると思います。私もそうかもしれない。
 そして、妻の死から半年経って、彼はわかったのです。
 幸夫は、そして初めて、他の誰のためでもなく、また梅根からでもなく、ただ妻を思い、泣いた。

 梅根からではなくというのは、「あのときもっと優しくしていたら」とかね、でもそれは結局、自分の思いじゃないかということですね。そうじゃなくて、ただ純粋に死んだ妻のことだけを思って、泣いた。そこに重大な意味があります。
 それこそ、本当の涙なのです。他人を偲んでということなのです。
 途中、色々腹も立った作品でしたが、ラストのこの一文で、ストンとすべてが収まったような気がしました。

 当たり前ですが、死んだら二度と逢えません。
 親の死ならば兄妹がいれば分かち合えるでしょうが、配偶者の死を他に分かち合える人間はいません。
 元々は夫婦というのは他人なんです。
 そりゃ、結婚生活も長くなれば全力解放の屁を放ったり、鼻を熱心にほじるのを見てしまうこともあるかもしれない。
 付き合った当初よりも、気持ちは変化していって当たり前ですね。
 でも、夫婦という関係は当たり前なんかではないのです。君がいて僕がいて当たり前ではない。
 でもそれは、孤独になってはじめてわかるものなんですね、きっと。
 そして泣くならば、「もっと優しくしていたら」とか「こうしていたら」とか思うべきではありません。
 二度と逢えないその面影だけを偲んで、「今までありがとう」と感謝して泣くべきだと思います。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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