「手のひらの砂漠」唯川恵

 ほとんど反射的に、可穂子は買い物用のトートバッグを掴んだ。チャンスは今しかない。
 逃げる。頭にあるのはそれだけだった。
 6階から1階まで転がるように下り、何とか道路に出たところで「逃がすもんか!」と、頭上から絶叫があった。
 「おまえは僕のものだ!」可穂子は見上げなかった。見上げて、顔を見たらきっと恐怖で足が竦んでしまう。
 商店街まで走った。目的の場所はその先だ。もう少し、あと少し。振り向けない。怖い、怖い。早く、早く。
 ようやく赤い灯りが目に入った。可穂子は転がるようにその中へと駆け込んだ。
 まだ若い警察官が慌てて椅子から立ち上がった。「どうかされましたか」
 「私、殺されます、夫に殺されます」


 DV(ドメスティック・バイオレンス)の被害認知件数は増加の一途を辿り、表沙汰になっているだけで年間3万件、一説には水面下に埋もれている件も合わせると、夫婦の6組に1組がそうだとも言われているらしいです。
 悪意があるのか精神的な病気であるのか、DVや幼児虐待、ストーカー行為をする人間の多くは、親から受けた虐待が根深く関与しているとも云われていますが、私は一概にそうは思えませんねえ。
 本作が典型的な例だと思いますが、最初は優しかった。それが半年も経つとだんだん変わってくる。ちょっとしたことで不機嫌になって、物を投げて、やがて妻を殴り蹴るようになる。すぐ謝る。泣いて土下座までする。感情が爆発し、そして暴力がどんどんエスカレートしてゆく・・・
 「自分が悪かった面もあるのかもしれない」と妻に思わせるのが手で、罪悪感を持たせることで自分の支配下に置いておこうとする。近所の奥さんにあからさまに夫に殴られたとか言えませんから、そういう見栄というか社会性も利用して内にこもらせてしまうのですね。
 中には妻が逃げても執拗に追いかけるのもいます。これはほぼサイコパス(反社会的精神病質)でしょ。
 結婚だけでなく恋愛でもそうですが、相手の気持ちが二度と戻らないとわかったら、自分のプライドのためにも諦めるのが普通です。しかし、サイコはそれが欠落しているどころか、自分のプライドのために相手に執着してしまうのです。時には自分のプライドを満たすために、相手を殺してしまう場合もあります。
 自分が幸せになると確信して結婚した結果がこうだったらどうなるのか。どこまで逃げても、離婚して行方をくらましても、執拗に追いかけてくればどうすればいいのか。その相手が警察や裁判など屁とも思っていない失うものが何もない男だとどうなるのか。殺され損なのでしょうか。たった1回の結婚の失敗のために?
 本作の主人公である可穂子もバケモノに取り憑かれています。彼女は逃げ切ることができるのでしょうか。それとも立ち向かって勝利することができるのでしょうか・・・

 唯川恵の本は初めて読みました。
 何の事前知識もなく読み始めたので、最初はサスペンス風でも、夫の暴力から逃げた主人公の可穂子が弁護士やDV被害者を救済するNPO法人に助けられて離婚に成功し、同じような被害を受けた女性ばかりで運営される農園に落ち着いて生活するようになったのを読んで、このまま心温まるヒューマンドラマで終わるのかと思いましたが・・・
 だから、もう出てこないと思っていた元夫が再び現れたときは、可穂子だけでなく読んでいるこっちも思わず凍りついてしまいました(;一_一)これはどうなるんだ、といったん風呂に入っておもむろに焼酎を準備して気合を入れ直して読みました。これも作者の腕なんでしょうね、筆力があってさらさらと読みやすいのに、突然どしーんと衝撃を感じたりします。非常に面白かったと思います。可穂子が感じた恐怖と苦痛の中での生活、絶望という暗闇が身につまされます。ただ、最後まで元夫のことを「雄二」と名前で呼んでいたのはどうなんでしょうか。これも人のよい彼女に最後まで染み付いた罪悪感の一端であったのでしょうか。それを作者が表現したかったのでしょうかねえ。読んでいるこっちはイライラしましたけど。

 人間というのは諦めなければなりません。その痛みというか辛さが生きていくということではないでしょうか。
 完璧な人生などありません。結婚など失敗して当たり前、それを失敗だと認めたくないちっぽけな見栄やプライドはいりません。自分一人で生きていく覚悟がある、スキルがある、そういう人じゃなければ自分以外の人間もまた幸せにすることなど出来ないと思います。どんな美人でもイケメンでもウンコはクサイんですからね。お互いに尊敬できるような関係でなければ、ともに暮らしていく必要があるのでしょうか。運命の人だなんて言ってるうちは、その結婚、まてよ、と思います。

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