「靴の話」大岡昇平

 「レイテ戦記」で名高い大岡昇平の戦争小説集。「捉まるまで(俘虜記)」ほか全5篇。
 すべて太平洋戦争末期に補充兵として参戦した自身の実体験に基いていますが、瀕死に陥った自身の魂ですら客観的に見つめるその文学的分析力は非常に高く、もはや戦記ノンフィクションの範疇を大きく超え、戦争文学の金字塔とでもいうべき立場まで昇華しています。
 現在の日本人は戦争(戦闘)を知りません。
 いや、はるか離れたアメリカから中近東の無人偵察機を操縦できる時代ですから、もはや第二次世界大戦で見られたような血で血を洗うジャングルの白兵戦的な戦いは、次第に地球上から滅しつつあるはずです。
 それだけに、太平洋戦争において南方の島々で、連合国と戦う前に、病気や飢餓、装備品の不良と戦わなければならなかった日本兵の悲惨極まりない戦争体験は、生の声として地球史上日本という国にしか残りえないのです。
 劣悪という言葉さえ生ぬるい、最悪の戦闘において、今の我らと変わらず若くて希望に満ち、夢を信じ、愛する家族を持っていた青年たちが、いかにしてその運命を受け入れて、日本の国のためという欺瞞のもと死んでいったのか。
 大岡昇平の場合、敗戦へ転がり続ける昭和19年に、老兵といってもいい妻も子もある35歳で召集されましたから、その運命の受け入れ方たるや、半端なものではなかったでしょう。
 まして彼は京大卒のインテリでありながら、軍隊の最下層たる二等兵として戦地に赴かねばなりませんでした。
 ほんの70年前の青年たちを襲った悲劇。一瞬で暗転する運命。軽すぎる命。
 同じ日本民族として、私たちはその声を胸を開いて聞き、背筋を伸ばして後世に語り継がねばなりません。
 そのためには、自分で本を読んだりして研究しなければならないはずです。
 間違っても知らないのに「知っている」と言ってはなりません。「研究中」だと言えばいいのです。隣のバカに騙されて「慰安婦問題があったかもしれない」などと口が裂けても言ってはダメです。どうして自分が生まれる前の出来事を判定できるでしょうか。自分が知らないことを謝れるでしょうか。タイムマシンで見てきたのでしょうか。
 「わからない」「知らない」「勉強中」「自分はやっていない」と言えばいいのです。その通りなのですから。
 「先祖がやったかもしれない」などと言う人のいいバカがいるかぎり、日本の戦後はいつまでも終わりません。
 だからといって過去の戦争から目を背けることは、許されることではないと思いますけどね。
 
「出征」
 昭和19年6月東京、3ヶ月の教育召集を終えて解放されるはずであった、35歳妻子持ちの著者は、南方の前線に送られることが決まり愕然とする。神戸から妻と2人の子供を呼び寄せたが、慣れぬ東京への旅ゆえ面会には現れなかった。しかし、東京から出発するべく行軍中、最後の機会に、偶然にも著者と妻子は会合した。著者は妻の姿に自分が死んだ後の彼女の姿を見、同時に妻の方では変わり果てた夫の姿に「死」を見た。
 こうして、敗軍のなかに死ぬだろうという死の予感のなか、運命の滑車は回り、著者は比島へと送られる。

「暗号手」
 著者が送られたのは、ルソン島西南に位置するミンドロ島。四国の半分の大きさである。ここのサンホセ警備隊で、著者は部隊唯一の暗号手をしていた。暗号手とは、部隊間の無線連絡を、部隊換字表と乱数という暗号を使って組み立てたり翻訳したりする専門職である。肉体的に楽であり、歩兵より安全性も高いのんきな仕事だった。
 しかしこれが、「一にヨーチン(衛生兵)、ニにラッパ」が著者の部隊では「一に暗号、ニにラッパ」と云われるまでに下士官兵の嫉妬を受け、著者は矛先を転じるためもあって、中山という36歳の東大出の元高級社員を暗号手の弟子にする。
 ところが、いつしか世渡りの上手な中山と著者の関係は逆転してしまう。

「襲撃」
 著者は内地を出撃前、近衛兵から「おまえら間違っても天皇陛下万歳なんて言って死ぬなよ」と言われたという。送られた前線の中隊長は、「それまでそんなものあるかと思っていたが、ノモンハンで天皇陛下万歳と言って死ぬのを見た」と語っていたそうだ。「天皇陛下万歳」は、戦前の日本人教育ですり込まれたただの「型」にすぎない。
 ところが、著者と仲のよかった小林という衛生兵が、昭和19年11月中旬ゲリラ兵に撃たれて戦死したとき、実際に天皇陛下万歳をした。著者は、それを彼の孝行とか勤勉とかいう道徳律が天皇崇拝という頂点を必要としたためであると推測し、その根底には日本人が神を持たないからである、と論じる。

「捉まるまで」
 昭和19年8月以来ミンドロ島西部南部の警備隊にいた著者は、12月15日の米軍上陸をもって山中に入り、当初はキャンプ生活のようにのんきであったが、次第に兵隊がマラリアで倒れ、著者もマラリアで衰弱してただひとりジャングルで倒れているところを、米軍の捕虜となる。昭和20年1月25日のことであった。
 元々、S(漁業会社の重役の息子)と共に、こんな辺鄙な山中で愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのはつまらないと思っていた著者は、ひそかに比島脱出作戦を策謀していたが、マラリアに倒れてそれどころではなくなったのだ。
 部隊から置き去りにされ、山中で単独行動をせざるを得なくなった著者は、ついにアメリカ兵を目にする。しかし撃たなかった。自殺への思いと、喉の渇きとの戦い。不発だった手榴弾。知らず知らず著者の運命は生存するほうへ転がる。
 戦争文学の名作。どこがよかったといって、白人を撃たなかったところではありません。マラリアに侵されて、たったひとりやっとこさジャングルを放浪していた著者の、自殺しようとする思い(心)と水が飲みたいという思い(体)のせめぎあいの部分。これは、実戦争体験者でなければ書くことはできません。死ねば喉の渇きも消えるのですが、どちらかというと水を飲みたいという思いのほうが勝っていたかと思います。でも、著者は一度は手榴弾で死のうとしました。不発でしたが、やはり運命は偶然に支配されおり、この後、意識がないうちに米兵に発見されたのもそうですね。意識があれば、素直に降伏できたでしょうか。抵抗して殺されたかもしれません。起きていれば勝手に撃ち殺されたかもしれません。
 
「靴の話」
 戦争末期に前線行きの兵士に渡りだしたゴム底鮫皮の軍靴は、モノづくり日本の片鱗もうかがえない粗悪品だった。
 ゴム底は比島の草によく滑り、鮫皮はよく水を通した。米軍が上陸してからのわずか4日の山中行で、はやくも著者の軍靴はダメになった。しかしすばしこい、要領のいいやつは、予備の軍靴を持っていた。
 東京近郊で巡査をしていたという同年兵の松本もそのひとりで、真っさらの軍靴を持っていた。
 しかし、頑強で機敏だった松本は、不思議にもマラリアで死んだ最初の兵隊となった。たまに看病していた著者は、松本の持っていた新品の軍靴を、彼が死んでから手に入れることに成功する。ところが、その著者もマラリアで倒れてしまう。そうすると、戦利品が今度は同じ小隊の仲間に狙われていることに気づく。
 ずっと後に、俘虜収容所では、アメリカ兵とサイズが違いすぎるためになかなか靴だけは日本兵捕虜へ支給されず、著者の履いていたゴム底鮫皮靴はすこぶる重宝し、収容所唯一の日本製品として、同じ捕虜から垂涎の的で見られたという。やがて、通訳として収容所の役員になった著者は新しい靴をもらい、履き通していたゴム底鮫皮靴を中庭に埋めた。ところが、知らぬ間に何者かに掘り返されていたということである。
 欠乏(必要)のあるところ常に「事実」がある。

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